10
大樹はまるで夢を見ているようだった。
これほどの幸福を、大樹はこれまでの人生で一度も感じたことはなかった。
奈央と過ごす日々は大樹にとって全てだった。
もはや奈央失くしてこれからの人生など考えられるはずもない。
自分の人生は、奈央の為にこそあるべきだ。
この命は、奈央の為に生じてきたのだ。
自分の全てを、何もかもを奈央に捧げたくてたまらない。
これが愛というものなのか、愛とは何て素晴らしいものなんだ、この愛を僕はどう奈央に与えればいいのだろうか、大樹の頭の中はそんな想いにただただ満たされていた。
奈央の喜ぶ顔が見たかった。奈央が喜ぶのであれば、大樹はどんなことでも叶えてあげようと誓わずにはいられなかった。
デートを重ねるごとに、分かれるその時間と道が忌々しくてたまらなかった。奈央と離れることが耐えがたく、分かれのキスを重ねるごとにこのまま奈央とひとつに溶けてしまいたいと願った。それは肉体的なことだけではなく魂そのものがひとつになってしまえばいいのにと神に請うほどだった。
手を取り合い、舌を絡め合い、そして奈央は悦んで大樹の邪な情欲を受け入れてくれた。
例えそれが夢の中のことであったとしても、大樹はこのまま夢の中で奈央になりたいと思うようになっていた。
いや、今や彼は彼女とひとつだった。
彼女の中で幾度も果て、そして幾度も彼女の中に自身の穢れた情欲を注ぎ込んだ。彼女は恍惚の瞳で彼を、彼の情欲を自ら欲した。穢れていても構わなかった。ただただひとつになりたかった。彼は彼女とひとつに溶け合いたかった。彼女に包まれながら、このまま彼女の中に、彼女の魂と溶け合い、飲み込まれてしまいたかった。
彼女は神だった。彼女こそが大樹にとって全能なる女神だった。彼女は彼の恋人であるのと同時に、母でもあった。母のぬくもりに包まれて、彼は至上の幸福の中にあった。彼には彼女以外、何も見えなかった。世界は彼女だった。彼女の悦びに歪む顔が、彼の全てを彼女に捧げさせた。貪るように彼女は彼を求めた。彼は彼女に求められるように全てを捧げた。彼女の中に全ての欲望を、穢れを、感情を、何もかもを差し出した。
もはや彼は何も考えることができなかった。彼女に包まれながら、そうあることが、ひとつであることが当たり前なのだと確信していた。何も疑うことはなかった。
全てが奈央なのだ。奈央は僕で、僕は奈央で、奈央は僕の女神さまでお母さんで僕とひとつに溶け合って注ぎ込んで子を為してすべてを受け入れてくれる奈央は僕の全てでいくらでも奈央の中に僕の奈央の精子をその中に愛してるどこまでもひとつに奈央の為に僕は奈央の全部が欲しいから僕は欲しい僕の全てが奈央にその子宮に奈央の僕の僕は奈央の為に大好きだから全部全部僕は奈央で奈央は僕で僕の奈央は僕で奈央は僕の中に全部注いでその愛を全部全部僕の中に欲しい全部欲しい奈央の全部は僕で僕は奈央で僕は奈央の僕は僕は僕は僕は僕は――
「――何してるのっ!」
唐突に誰かの叫ぶ声が聞こえて、それと同時に強く腕を引っ張られた。
視界が反転し、それまでぼんやりと見つめていた眼下の線路が遠くへ離れ、そのまま星の煌く夜空を望むようにして後ろに倒れた。
がんっと派手に背中と後頭部を打ち、夜空の星とは別の星が視界に飛び交う。
「痛っ!」
大樹は思わず口にして後頭部に両手を回して何度もさすった。
それから自分の顔を上から覗き込んでくる人影に視線を向ける。
「な、何するんですか……!」
そんな大樹に、人影は腰に手をあて、薄暗がりの中で怒りにも呆れにも似た表情を浮かべてから、
「何するんですか、じゃないでしょう? 何をするつもりだったの? あんなところで」
あんなところ?
大樹は上半身をゆっくり起こし、人影の指さす方に視線を向ける。
……ここは、どこだ? 何だか見覚えがある……そうだ、駅前の開かずの踏切、そこに架かっている陸橋の上だ。立ち並ぶ街灯に照らされたその陸橋の広い道には、何事かと大樹とその人影に視線を向けてくる、他の通行人たちの姿も何人かあった。
大樹はその人影――恐らく自分の腕を引っ張って横転させた女――の顔に見覚えがあった。
「まさか、飛び降りて死ぬつもりだった? それとも、何か変なモノでも投げ込もうとしてた?」
「ち、違いますよ! そんなことしませんよ……!」
「そう?」と麻奈は肩を落とし、「なら、なんであんなところに上ったの? っていうか、どうやって上ったの?」
あんなところ、とは恐らく麻奈の指さす先、陸橋の高い柵のことだろう。なんで、と聞かれても上った記憶はないし、どうやって上ったのかすら覚えていない。本当に僕はあんなとこに上っていたのか? 疑いたくもなったけれど、実際さっきまで眼下にいくつもの線路を望んでいたわけだから、どうやってか上ったのだろう。
でも、いったい、どうして――
「まさか、覚えてないわけ?」
「……はい」
「大丈夫? もし私が通りかからなかったら、もしかしたらそのまま落ちて死んでたかもしれないんだよ、木村くん?」
「……すみません」
「……まさか、最近できたっていう彼女に振られちゃった、とか?」
「えっ?」
ぐさり、と大樹の胸に何かが突き刺さる。
……いや、違う。そうじゃない。僕は奈央に振られてなんてない。
今日も奈央とデートして、ソレイユでみんなと一緒にお店を廻って――それから? それからいったい、僕はどうしていたんだろうか。どうして僕はこんなところに、こんな時間に、あんなところに上ってしまったのだろうか。
どんなに考えても、どんなに思い出そうと試みても、大樹は奈央とふたりでソレイユを出たところまでしか記憶がなかった。
こんな辺りが真っ暗になってしまうまで、果たして僕はどこで何をしていたのだろうか。
「ちょっと、木村くん?」
眉根を寄せて再び顔を覗き込んでくる麻奈に、大樹ははっと我に返って、
「ご、ごめんなさい、全然思い出せなくて…… でも、振られたりとかはしてないです! 今日も奈央とふたりでデート、っていうか、ソレイユで宮野首さんや矢野さん、ハジメや結奈さんたちと遊んでたんですけど……体調が悪くなって、解散したところまでしか思い出せないんです。熱中症か何かで、頭の中がおかしくなったのかなぁ……」
「そうなの? なら、早く帰って休んだ方が良いわ。それとも、うちに来る?」
「うち……?」
うち、と言われて大樹は一瞬、駅近くのマンションにある宮野首家のことを思い浮かべたのだけれど、そう言えば麻奈は今現在、彼氏さんと同居しているのだということを思い出した。そのアパートもこの駅の近くだという話は聞いていたが、まさか彼氏さんとふたり暮らしの中に突然自分のような男が行くなんてどう考えても気が引ける。
「あ、いや、大丈夫です」
「本当に? なんか心配。また意識が飛んで奇行に走ったらどうするの?」
「だ、大丈夫ですよ、たぶん……」
手を振る大樹に、けれど麻奈は首を横に振る。
「やっぱり、ダメ。今日はうちに泊まりなさい。カズオミは私が説得するから、安心して」
カズオミ、とは、確か岡田一王――麻奈さんの彼氏の名だったか。一度だけ会ったことがあるのだけれど、黒いサングラスに黒いロングパンツ、黒いボタンダウンのシャツを着た何とも怪しげな青年だったことだけは覚えている。悪い人ではなさそうだったが、かといって人の好さそうな印象もまるでなかった。
「――けど」
「はい、四の五の言わないで、行くよ!」
いまだ腰を地につけたままの大樹に、麻奈は右手を伸ばしてきた。
大樹は少しばかりその手を見つめたあと、小さく頷き、
「……すみません。お願いします」
麻奈の手を、強く掴んだ。
また朦朧とする意識の中で線路に飛び込もうとするなんて、御免被りたいと心底思った。