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第3話

   3


 涼しい風が部屋の中をさっと流れていく。朝早いこの時間、自室のドアを開けておくと、母親がベランダで洗濯物を干しているため、開け放たれた掃き出し窓からいつも心地よい風が吹いていた。


 陽が高く昇っていくにつれてその風すら生暖かくなっていくので、勉強をするならこの時間に限ると玲奈は思っていた。夏休みの宿題も順調に進んでおり、八月を目前にして半分以上が終わろうとしている。このペースなら、八月の初めには全ての宿題を終わらせることができそうだった。


 時刻はそろそろ八時になろうとしており、次第に気温も上がってきているが、まだまだ日中の暑さとは比べ物にならないくらいには十分涼しい。いつも通りだと十時くらいまではリビングの窓が開けっぱなしになっているから、それ以降に暑くなってきたらエアコンをつけるつもりだ。それからの時間は部屋にこもって、ひとり静かに本でも読もう。


 そう思っていた矢先のことだった。


 勉強机の上に置いていた玲奈のスマホからピロリンと音がして手に取れば、桜から『今日ヒマ?』というメッセージが届いていた。


 暇かと問われれば、正直なところ、夏休みに入ってからほぼ毎日が暇だった。


 特にやりたいこともなく、予定もない。暑いから外に出たいと思うこともなかったし、そもそも玲奈はあまり外には出かけたいと思う質ではなかった。日焼けもしたくないし、何より薄着だと周りの男からの胸元への視線が気になって嫌だった。結奈は事ある毎に『いっそ見せつけてやればいいのに』などと口にするが冗談ではない。そんなことをして変な人に襲われでもしたらどうするのか。コトラが居るとはいえ、自ら危険を呼び込むようなことはしたくない。本当に忌々しいくらいに成長してしまったと思う。母方から続く遺伝のように姉妹揃って胸の成長著しいが、中でも玲奈は特にそうだった。汗をかけば蒸れてかぶれるし、何より重くて肩がこる。それでもなお成長の気配を見せるのだから、今後が恐ろしくて仕方がなかった。いっそいつか手術でもして小さくできないだろうか。確か、そういうことをした女優がいたような気がする。もしかしたら、これさえなければいくらでも外に出かけようと思えたかもしれない。果たしてこれは、姉の言う通り自意識過剰なのだろうか? 玲奈にもよく判らなかった。


 玲奈は勉強の手を止め、『暇だよ』と短く返信する。再びシャーペンに手を伸ばそうとして、さらにピロリンと桜からのメッセージが表示された。


『なら遊びに行こうよ』


『いいけど、どこに?』


『どこでもいいよ!』


『ソレイユは?』


 近くのショッピングモールであるソレイユなら、駅前からバス一本で十数分で行ける距離だ。館内はエアコンが効いているし、太陽にも当たらなくてすむから日焼けもしない。胸元を隠すように上着を着ていても違和感がないから、あそこなら比較的安心できる。


『OK!』


 ぽこん、と親指を立てたスマイルマークのスタンプが送られてきて、玲奈もそれに対して同じくスタンプで返してから、


『何時に待ち合わせする?』


『十時くらいに駅前のバス停で』


『じゃぁ、またあとでね』


『楽しみ!』


 キスを投げてくるイラストを見てから、玲奈は再び机の上にスマホを戻した。


 シャーペンを手に取り、とりあえずこのページまで終わらせてしまおうと設問の続きに取り掛かる。


「どこかにお出かけですか?」

 ベッドで丸くなっていたコトラが頭をもたげ、訊ねてきた。


「うん。桜とソレイユに」


「……あそこ苦手なんですよね。人が多いから」


「じゃぁ、コトラは行くのやめておく?」


 訊ねれば、コトラは軽く首を横に振って、

「いえ、玲奈さんから目を離したら、タカトラ様に怒られちゃいますし」


「無理しなくても大丈夫だと思うけど」


「そうはいかないです。僕に与えられた大事な責務ですから」


「そう? じゃぁ、気分悪くなったらすぐに教えてね」


「すみません、ありがとうございます」


 ゆっくりと頭を下げて、再び目を閉じるコトラ。こうして見ると、喋ることを除けばただの子犬にしか見えない。というより、両親はただの子犬としか思っていない。コトラのことを知っているのは長女の麻奈と次女の結奈だけだ。別段隠しているというわけではないのだけれど、両親に要らぬ心配をかけさせたくない、ただそれだけの理由だった。もちろん、自分たちに怪異が視えていること、祖母である香澄からそれぞれ対処法を教わっていることも両親には秘密にしている。もしかしたら母親くらいはその事実を知っていて口にせず見守ってくれているだけかもしれないが、こちらからそれを確かめるわけにもいかなくて、この状態がずっと続いている状況だった。


 玲奈はページ最後の設問を解き終わり、ノートと問題集を閉じて脇にどけた。それから腕を上げて背筋を伸ばすと、ガチガチと肩から大きな音が鳴った。大きなため息を吐き、自ら軽く肩を揉む。元から気付くと身体に力が入っているせいで、肩がガチガチに固くなっていた。


「揉んであげようか?」


 突然背後から声がして両肩を掴まれ、玲奈は思わず「きゃあぁっ!」と悲鳴をあげていた。


 振り向けば、結奈が目を見張って立っており、

「……っくりしたぁー。そんな驚かなくてもいいじゃない」


「ご、ごめん。気が付かなくって……」


「まぁ、いいけどさ」それから結奈は丁度良い力でぐいぐい玲奈の肩を揉みながら、「うわぁ、なんか石みたい。私や麻奈よりガッチガチ」


「あぁ――すごくいい――ありがと、お姉ちゃん――」


「近いうちマッサージしてもらいに行った方がいいかもね」


「でも、お金かかっちゃうし……」


「それくらい私が出すよ。っていうか、あんたまた胸デカくなってない? 大丈夫? ちゃんとサイズあったブラ付けてんの?」


 容赦なく胸元に手を伸ばしてくる結奈の手を、玲奈は阻むこともできなかった。そのまま直接胸に触れられて驚きの声を漏らす。


「ちょ、ちょっと! やめてよ!」


「ごめんごめん!」へらへらと笑いながら結奈は手を引っ込め、再び玲奈の肩を揉みながら、「でも、そろそろ新しいの買ったほうが良いよ。合わないブラなんかしてるから余計に肩が凝っちゃうんだよ」


「そうかも知れないけど――サイズがないし」


「ソレイユなら最近新しいお店ができてたよ。可愛いデザインで大きいサイズ扱ってるの。今日一緒に行って買ってあげようか? バイトもなくて、今日は私も暇だし」


「今日はこれから桜とソレイユに行く予定があるから、一緒に行く?」


「お、いいね。桜ちゃんとも久しぶりに遊びたかったし、一緒に行って大丈夫か聞いてみて」


 玲奈はうんと答えて、桜に『お姉ちゃんも一緒に行って良い?』とメッセージを送る。桜からの返事は思っていた以上に早かった。


『もちろん! 二倍二倍!』


 そんな返信と共に送られてきたのは、ニヤリと口元に笑みを浮かべる黒い影の不審者スタンプ。確か探偵もののアニメの犯人を黒塗りの人物として描いたものだ。玲奈自身はあまり好きなアニメではないのでほとんど観ていないが、キャラクターだけは知っている。何が二倍でどういうつもりでこんなスタンプを送ってきたのか解るような気がして、玲奈は苦笑交じりに小さくため息を漏らしていた。


「桜ちゃん、なんて?」


「一緒に来ていいって」


 画面を覗き込んできた結奈が、その桜からのメッセージを見て吹き出すように笑みをこぼす。


「相変わらずだねぇ、桜ちゃん。こりゃ楽しみだわ。ふたりで可愛いブラを選んであげるよ!」


「……う、うん」


 ね? と横から顔を覗き込んできた姉の意地悪な微笑みが、玲奈はなんだか恐ろしくて不安で仕方がなかった。

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