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窓から差し込む眩しい光に大樹は目を覚ました。開けっ放しの窓から網戸越しに吹き抜けていく風は心地よいが、すでに気温はそれなりに上がっており、タオルケットをかけただけの身体にはうっすらと汗が滲むように浮かんでいた。今日も暑くなりそうだと思いながら、ぼんやりと天井を見つめる。
何だか異様に体がだるいような気がしてならない。夏休みに入ってからというもの、ほぼ毎日のように奈央とどこかに出かけているのだから、それもしかたのないことだろう。好きな人と一緒にいられるのは嬉しいことではあるのだけれど、たまにはひとりでのんびりする時間があっても良いかもしれない。大樹はそんなことを考えながら、小さくため息を漏らした。
瞼を閉じれば、そこには奈央の顔が浮かび上がる。あの綺麗な顔が、可愛らしい笑顔が、愛らしい微笑みが、大樹の瞼にまるで焼き付いているようだ。恍惚の瞳、煽情的な胸元、無遠慮で強欲的な腰つきまで脳裏に浮かび、大樹は慌てて自身の股座に手をやった。朝からなんて妄想に浸っているんだ、と自分を恥じ、けれどもそんな現実を期待している自分の身体を正直に受け入れ、そして自慰に耽る。ひと時の快楽に身を委ね、大樹は妄想の中の奈央を
自分はそんな不誠実な想いで奈央と接していたのか。それが目的で奈央と付き合いたかったのか、と。
そんなはずはない。これは心からの愛だ。邪な思いなどあろうはずがない。この感情は、好きだから、愛しているからこそ湧き上がる情欲なのだと自身を納得させた。
気怠い身体を起こして、大樹は汗に濡れた下着ごと手早く着替える。時計に目を向ければすでに八時を回っていた。七時には起きるつもりだったが、どうやら目覚まし時計をセットし忘れていたらしい。
階下から物音がしないところをみると、父親も母親もすでに仕事に行ってしまっているようだ。
兄弟姉妹のいない大樹の家はしんと静まり返っており、反対に外から聞こえてくる雑踏や蝉、鳥の鳴き声がやかましいほど部屋の中に響いて聞こえた。
奈央との約束は、確かいつも通り、十時過ぎに駅前だったはずだ。
ふとスマホに目をやれば、すでに奈央から朝のメッセージが届いていた。
『おはよう』という短い言葉のあとに付されたキスとハートマークのスタンプに顔が綻ぶ。
今から朝食を軽く食べて急いで自転車に乗れば、恐らく十時よりも前には駅前につけるだろう。
大樹も奈央へ『おはよう』とメッセージを送り、スタンプを添えた。
それから階下に降りるとキッチンへ向かい、食パンをトースターに入れてからコーヒーを淹れる。あっという間にトーストが焼き上がり、冷蔵庫からイチゴジャムを取り出してそれをトーストに塗りたくる。
母親がいたら『卵とかサラダとかも食べたら?』と言われるのだろうけれど、朝からそんなに食欲がある方ではないのでこれだけで十分だ。
ものの数分でトーストを平らげ、それを流し込むようにコーヒーを飲み終えると、大樹は念入りに歯磨きをして鏡の前の自分と対峙する。
何とも平凡な顔。可もなく不可もなく、そこにあるのは見慣れた何の変哲もない、ただの凡人の顔だった。
こんな自分のどこを奈央は好きになってくれたのだろうか。大樹は不思議でならなかった。あれほどの美人なら、引く手あまただろうに。そう思いながら、大樹は顔を洗い、最低限、髪型だけでも軽く整えた。どうせ自転車に乗っている間に乱れてしまうのだけれど、一応ちゃんとしておこう。
よし、と大樹はひとつ頷くと、用意しておいたいつもの肩掛け鞄のショルダーを頭から通し、後ろに回す。何だかよくわからない英語のプリントされた白い半そでシャツに細身のデニムパンツ。あとはこれにいつもの運動靴を履いて、大樹は玄関先の姿見に今一度自身の姿を映し出した。
…‥うん、普通。本当に最低限って感じだ。
もう少し髪型とか気にした方がいいだろうか? 服装にも気を使うべきだろうか。クラスの中には化粧品を使っている男子もいるし、自分も使ったほうが良いのだろうか?
少なくとも、奈央と釣り合うだけの自分にはなりたい。大樹は思い、野暮ったい感じのする自分の姿に深いため息を吐いてから、玄関を抜けて外に出た。
暑い。ただその一言に尽きた。今日も相当、暑い一日になりそうだ。
玄関の鍵をしっかり締め、大樹は玄関脇にとめた自転車に乗って、一路駅前へと向けて地面を蹴った。
住宅街を抜けて、表通りに出る。あとはこの国道をひたすら南下して、スポーツセンターを左に曲がればあっという間に駅前だ。
道路を走る車は多かったが、歩道を歩く人々の数は夏休み前と比べてとても少ない。
道中、大樹は脇道へと抜ける小さな交差点の前で赤信号にあたり、自転車を停めた。その交差点を通る際、大樹はどうしても辺りを見回してしまう。一年前、そして夏休み前、大樹はここであの男――小林隼人に声をかけられた。今でもここを通る時、どこかで小林が自分を見ているのではないか、どこかから突然現れて、また話しかけてくるのではないか、そんな不安に囚われる。
そんなはずはない。あいつはあの時、消えていなくなったのだ。そう思いはしても、本当にヤツが消え去ったのか、それを確かめたわけではないのだから、実は今もどこかに潜んでいて、自分や奈央のことを今も狙っているのではないか、そう心のどこかで怖れてしまう。
――大丈夫、アイツはいない。もういないんだ。
大樹は自分にそう言い聞かせて、再び前を向いた。
パッと信号が青に変わり、ペダルに足をのせる。
その時だった。
「……っ!」
黒い人影が視界に入ったような気がして、大樹は慌てて横を振り向いた。
そこに立っていたのは、如何にもサラリーマン風の、スーツ姿の中年男性だった。
男性は突然大樹に顔を向けられ、戸惑ったように眉を潜め、首を傾げながら大樹の横を歩き去っていく。
……気にし過ぎだぞ、俺。
大樹は深い深いため息をひとつ吐いてから、急ぎペダルを踏みこんだ。