1
肌に痛いほどの強い陽光が地に降り注ぐ。黒いアスファルトの上では陽炎がゆらゆらと妖艶に舞い踊り、どこまでも続く青い空には、彼らを消し去ることのできるであろう雲ひとつ流れてはいなかった。
深緑の葉に隠れるようにして樹木にとまる蝉らの合唱はどこまでもけたたましく、ただ耳に入るだけでその暑さを増していた。建ち並ぶビル群の窓ガラスに反射した陽光から逃れるようにして日陰に隠れる人々の中、大樹は奈央と並んで歩いていた。
奈央はデニムのパンツに黒いタンクトップと白の薄いシャツを羽織っており、シンプルな黒のキャップを被っていた。しっかりとメイクされた顔は、とても同じ高校生とは思えないほど大人っぽく大樹には見える。同じような色のデニムパンツにシンプルな白の半袖シャツを着ているだけの大樹とは雲泥の差があり、鏡や窓ガラスに自分たちの姿が映し出されるたび、大樹は何とも場違いな気分になるのだった。
夏休みに入ってからというもの、大樹は奈央と会わない日はほとんどなかった。奈央が大樹の家を訪れるということはなかったけれど、代わりに大樹は毎日のように奈央の家まで自転車を走らせ、午前中は共に宿題を、午後は遊びに出かける、ということをここ数日、ずっと続けていた。
夏休み前のあの一件以来、奈央はすっかり変わってしまったようだった。あれほど目立たないように、他人を避けるようにしていたあの奈央が、今では自ら化粧を施し、ファッションに気を遣うようになってしまった。それはとても良いことなのだろうけれど、大樹からしてみればとても冷や冷やしてしまうことでもあった。こうして一緒に遊びに出かけるたび、奈央をひとりにすると見知らぬ男たちが奈央に話しかけてくるということが何度もあった。その男たちの眼は明らかに下心が見え透いており、奈央もまた彼らを無視すればよいものを、いちいち受け答えするものだから、大樹は何度横から手を伸ばして無理やり男たちから引き剥がしたか知れない。
奈央は「心配し過ぎだよ。ちゃんと受け流すから」と口にするが、それでも大樹は心配で心配でしかたがなかった。それはなにも奈央を独占したいとか、他の男たちと話をして欲しくないとか、そういう感情からでは決してなかった。
明らかに今の奈央はどこかおかしい。気づくとどこかへ姿を消してしまうのではないか、そんな危なさを大樹は感じていたのだ。
大樹は深いため息を吐き、隣を歩く奈央に顔を向ける。
背筋をピンと伸ばし、胸を張るように歩むその姿は美しく、そんな自分に自信があるように大樹には見えた。
事実、奈央はとても綺麗で色っぽく、まるで光り輝いているようだ。あの一件まで日陰に隠れるようにしていた姿はすっかりなくなり、自身の魅力を全面的に押し出していくそのさまに違和感を覚える。
この少女は、本当に自分の知っている“相原奈央”なのだろうか。
どこかで別の誰かと入れ替わってしまったのではないだろうか。
そう疑ってしまうほどに、今の奈央はかつての奈央とはかけ離れて見えた。
「……なに? どうかした?」
大樹の視線に気付いた奈央が、口元に微笑みを浮かべながら訊ねてくる。
「あ、いや」と大樹はしばし口ごもり、「ち、ちょっと本屋に寄っていい?」
「うん」奈央はこくりと頷くと、繋いでいた大樹の手をぎゅっと握り直す。「他にも行きたいところがあったら言ってね」
「あ、うん。奈央はどこに行きたい?」
「私は、大樹と居られたら、どこだっていいよ」
「え、あ、うん」
奈央の言葉に、大樹は頬を染めながら、奈央の手を握りしめた。
嬉しいはずなのに、やはり何かが胸に引っかかる。
何だろう、どうしてこんなに気持ちになるんだろう。
絶対におかしい。でも、何がおかしいんだろう。
僕は奈央とこうなることを望んでいた。
恋人になって、手を繋いで、色々なところに出かけて、そして――
願いは叶ったというのに、何故かそれを素直に喜べない自分がいる。
いったい、どうして。
「なに? 大丈夫、大樹?」
小首を傾げる奈央に、大樹は「あ、うん」とまた同じような返事をする。何がどう大丈夫なのかもわからなかったし、ただ漠然とした不安なのだけれど、それを心配してくれる奈央に対して、大樹はそれを払しょくするべく、なるべく笑顔を浮かべながら、
「奈央も遠慮せずに言ってね。なんか、僕の行きたいところにばっかり行ってるような気がして、悪い気がしてさ」
「私の行きたいところ、か――」
そうだなぁ、と奈央はその赤い唇に指をあてて瞼を瞑り、しばらく考えるようなそぶりを見せた。口の中で小さく何かを呟き、それから
「――ふたりっきりになれる場所、行きたいな」
言葉と共に吹きかけられた息で、大樹の背筋がぞくりと震えた。痺れるような感覚が全身を駆け巡り、視界が大きくぼやけて見える。一瞬にして頭の中が奈央に支配されてしまったかのように、それまで感じていた違和感と不安が吹き飛んでいった。
今、大樹の目の前にいる少女が大樹のすべてだった。大樹は奈央の中にいた。奈央以外のことを考えられなくなっていた。大樹は奈央を激しく求めていた。しかしそれは奈央も同じだった。それは大樹にとって初めての感覚であり、同時に初めからそうだったような既視感に囚われた。自分は最初から奈央の中にあって、それが当たり前だったのだ。大樹は奈央と共にあり、奈央もまた大樹と共にあった。ふたりはひとつだった。溶け合い、絡み合い、混じりあい、そして満たされていた。そこにあるのは安寧だった。全ての思考が意味を失い、無とも呼べる悦びに包まれていた。何も心配することはなかった。大樹は奈央に包まれながら、その幸福の中に身を委ねた。
我に返ったとき、大樹は煌びやかな夜の街を、奈央と共に歩いていた。
何が起きたのか、何があったのか、まるで思い出すことができなかった。
手には本屋で買ったのであろう、小説と漫画本の入った袋が提げられている。
奈央の肩にも、本屋が入っている同じビルのアパレルショップで買ったのであろう、いくつかの衣服が収められたショッピングバッグが掛かっていた。
――そうだ。あのあと自分たちは本屋に向かい、そのあと奈央の服をふたりで選んで、気が付くとこんな夜遅くになっていたのだ。
どうして一瞬、意識が飛んでしまったんだろう。遊び疲れてしまったのだろうか。
「どうしたの? 大樹」
「えっ」と奈央に顔を向けて、大樹は一瞬、奈央の色んな表情が重なって見えた。
微笑む顔、眉を寄せる顔、悦ぶ顔、嘲る顔……それらのどれが今の奈央の顔か、すぐには判別できなかった。
「……ごめん、ちょっと疲れたみたいで」
「そうだねぇ」と奈央は大樹に身を寄せ、「色々しちゃったからね、疲れちゃったよね。早く帰らないと、私もさすがに小母さんや小父さんに怒られちゃうかも」
「確かに、僕も母さんにどやされそうだ」
ふたりは軽く笑いあい、歩みを早めるように、帰宅の途に就いたのだった。