――奈央。
大樹は反射的に踵を返し、店から出ようと自動ドアに足を向けた。
しかし、ドアの前に立っても、一向に開く気配がない。
何故、と思っているガラスの向こう側では、奈央に話しかける黒衣の少女の姿があった。その姿を目にして、大樹は眼を見張る。
喪服の少女。
関われば消されてしまうと噂されている、あの女の子。
奈央が一瞬、動揺したようにこちらを振り向く。
けれど、その奈央と視線が合わない。
ガラス板一枚隔てているだけだというのに、まるでこちらの姿が見えていないかのような素振りで、奈央は再び黒衣の少女に視線を戻した。
なんで、どうして……!
「奈央!」
大樹は叫んだが、けれど奈央がそれに反応する素振りはまるでなかった。
「無駄だよ」
肩に濡れた感触があって、大樹はそれから逃れるように身を引いた。
自動ドアのガラスを背に、すぐ目の前に立つ小林を睨みつける。
「……どういう意味? どうして、アイツが」
「もう、身体がもたないんだってさ」
「身体?」
「そう。もう腐敗してボロボロなんだよ。見た目は綺麗だろ? でも、それは見た目だけ。俺たちの目にそう映っているだけなのさ。本当はあの皮の中、もうズブズブのドロドロなんだってさ。だから、一刻も早く新しい身体が必要なんだって。そうやってあの女は、ずっと同じような姿を保ってきたんだ」
大樹は今一度、ちらりと喪服の少女に視線を向けた。少女は青白い顔で、けれど所々に赤黒いシミのようなものがその肌に浮かび上がっている。しかし次の瞬間、その輪郭がゆらりと揺らめいたかと思えば、また綺麗な肌がそこには浮かび上がって見えた。
今のは、いったい――
「ああやって見た目を誤魔化してるのさ」小林はふんっと鼻で嗤う。「アイツ、俺のことまで騙そうとしてきたんだ。相原の姿でな。でも、俺にはすぐに違うってわかった。相原は、男だったら誰彼受け入れるような女じゃない。もっと心の底で孤独を愛している女なんだ。だから、俺はアイツと誓約を交わさなかった。偽物の相原なんて抱きたくなかったからな。そうしたら、アイツなんて言ったと思う? それなら、あの娘の身体を私が奪えば、その時は好きなだけその欲望を吐き出せばいいって言ったんだ。信じられるか?」
饒舌に語る小林に、大樹は嫌悪感を覚えた。それと同時に、小林からにおう腐臭に鼻を覆いたくなる。小林は、あの喪服の少女はすでに腐敗していると言った。けれどそれは恐らく小林も同じなのだ。小林の身体もまた青白く、所々に赤黒いシミが浮かび上がっている。何とか形を保っているが、気を抜けば今にも崩れてしまいそうに大樹には見えた。
「――でもさ、それじゃぁ、それはもう相原じゃないんだよ。結局、それは相原の面を被ったあの喪服の女でしかない。それじゃぁ、ダメなんだよ。だからさ、俺、交換条件を出したんだ」
「……交換条件?」
「そう」と小林は頷いて、舌なめずりをする。「もうさ、相原は俺のモノにはならない。それは解った。相原の気持ちは、全部お前に向かってる。無茶苦茶ムカつくけどな。それはもう、どうにもならない。だったらさ、俺にできることなんて、ひとつしかないよな」
小林は一歩、また一歩、大樹に歩み寄り、
「――とりあえずお前を憑り殺して、アイツみたいに、俺がその身体を奪ってやる」
「……なっ!」
こいつ、いったい何を言って……!
「お前、昨日、相原の誘いを断っただろ? 本当、馬鹿なやつだよな。せっかく相原のやつ、お前のことを受け入れようとしてくれたのに、どうして断ったんだ? お前だって相原のこと、好きだったんじゃないのか? あんなにキスしまくっておきながら、押し倒す勇気すらなかったのか? ほんと、木村ってヘタレだよな。一年も相原と一緒にいたのに、時間を無駄にしてさぁ。もし俺がお前の立場だったら――」
「黙れ!」大樹は思わず叫んでいた。拳を強く握りしめて、小林を真正面から睨みつける。「僕は、相原さんをそんな目で見たことはない!」
「嘘だな。お前は確かにそういう目で相原を見ていたさ。単に勇気と覚悟がなかっただけさ」
「違う!」
「違わないね。どうしてそんなに頑なに自分の欲望を認めないんだ? 恋人同士なら、あって当然の行為じゃないか。セックスなんて何も珍しいことじゃない。恥ずかしいことじゃない。互いの愛を感じあう行為だろう? 別に無理矢理犯そうってわけじゃない。相原は俺じゃなくて、お前を受け入れようとしていたんだ。それを頑なに拒んで、お前は何がしたいんだ? 相原がお前を求めているのに、お前はそれを拒絶したんだ。けど、俺は違う。俺なら相原を拒絶なんかしたりしない。何回でも、何十回でも、何百回でも、果て尽きるまで相原と」
「相原さんは、そんな子じゃない!」
「……頑固だな、お前も」小林はやれやれと肩を落とし、嘆息した。「そこまで否定して何になるんだよ。正直、俺はお前が羨ましい。相原の隣にいるべきは本来、俺のはずだったんだ。それなのに、その隣の席には常にお前がいた。この一年間、俺がどんな気持ちでお前らを見ていたと思う? あの女に騙されて憑り殺されてから、どんなに辛かったと思う? わからないだろ? わかるはずないよな。だって、お前は相原に選ばれた。そうさ、お前は選ばれたんだよ、相原に。ムカつく、本当にムカつくよ。だからさ、その身体、俺にくれよ。相原の誘いを断るようなお前の魂なんて必要ないだろ。見た目が一緒なら、中身が変わったところで相原も気付きはしないさ。俺がお前の身体をもらってやる。そうすれば、俺は相原と身も心も結ばれるんだ。そのうえで、俺はあの女に、相原を……だから、さ」
ずるり、と小林の頬が崩れて歯茎が露わになる。頭髪が抜け落ち、ぐちゃりと赤黒い肉塊が床に落ちた。肉塊はまるで赤黒い蛭のように蠢き、大樹の足元をのたうち回った。もはや小林は人の形を成してはいなかった。体中の至る所から肉を貪り食って太く丸く大きく育った赤黒い蛭が頭や尾を覗かせており、ぼとりと落ちた目玉に群がるように、蛭らはそれに喰らいついた。
がしりと大樹の肩が形を失った小林の手に強く掴まれた。大樹は眼を見張り、戦慄した。これまでは宮野首や矢野、村田と四人で対峙してきたモノに、今ひとり立ち向かう事の絶望感に手足が震え、思うように身体が動かない。このままでは、小林の思うようにされてしまう。この身体を奪われて、相原が――
大樹は震える手で、肩にかけていた通学鞄の中に右手を入れた。宮野首の祖母から貰ったブレスレットを探し、カバンの中を掻きまわす。焦れば焦るほどブレスレットは見つけられない。そうこうしているうちに、大樹の両肩を強く掴んだ小林の、かつて頭だった何かが大きく口を開いた。それはもはや人ではなかった。頭骨の露わになった赤黒い何か――それが大樹の顔の眼と鼻の先に迫っていた。
駄目だ、ダメだ、だめだ! このままじゃ、このままじゃ間に合わない――!
生臭いにおいが鼻を突いた。目を開けておくこともできないような腐臭、刺激臭に意識が遠のいていきそうだった。追い詰められ、背中に押し付けられる冷たいガラス。大樹は眼を見開きながら、必死に通学鞄の中を探して――
……あった!
その感触に安堵しながら、大樹はブレスレットを右腕に通した。
鞄から腕を引き抜くその勢いで、大樹は鞄を小林の身体に押し付け、力いっぱい鞄ごと蹴り飛ばす。
大樹の肩から、力なく小林の両手が離れ、肉塊と化した化物は床の上に仰向けに倒れた。
大樹の右腕で、ブレスレットが淡く輝いている。
化け物が、何か言葉を口にした。しかしそれは肉を失い、ただ頬骨と今にも引きちぎれそうな筋が動いただけでしかなかった。
赤黒い蛭が身体中を蠢き、ドロドロと崩れ落ちていく中で、その化物はゆらりと立ち上がり、再び大樹に迫りくる。
大樹はその化物の顔に、ためらいなく右手を伸ばした。
ぬるりとした気持ち悪い感触に耐えながら、その腕に力をこめる。
その瞬間、ブレスレットが眩しいほどの輝きを放った。
大樹は瞼を閉じ、その衝撃に身体が吹き飛ばされそうになるのを必死に耐える。
――ばちんっ
ブレスレットが、大きな音を立てて弾け飛んだ。
大樹の顔や身体に、何かが撥ねて飛び散ってきたような感触が残る。
次に大樹が瞼を開いたとき、そこに化物の姿はすでになかった。
ただ赤黒い肉片やかつて何かの形を成していたのであろう破片があちらこちらに散らばり、或いは壁に飛び散り、辺りを汚しているだけだった。
……終わった。
大樹は安堵し、ほっと胸を撫でおろして、
「――奈央!」
慌てたように、自動ドアの向こう側に身体を向ける。
しかしそこには、奈央の姿も、喪服の少女の姿も、どこにもなかった。