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大樹が一度トイレに寄ってから再び病室へ向かうと、先に病室に戻っていた奈央が、小母の横たわるベッドの前でじっと虚空を見つめるように立っていた。
「……どうしたの、奈央?」
また何かあった? と大樹が訊ねると、奈央は慌てたように振り返り、数度口をパクパクさせた。何かを大樹に伝えようとしているようだが、うまく言葉にできない様子だ。
それから奈央は小さくため息を吐くと、
「……小母さん、寝ちゃってるから、どうしようかなって」
見れば、相原の小母はすうすうと寝息を立てて眠っている。
「ああ、本当だ。どうする?」
「……起こすのも可哀想だし、どうしよう」
大樹と奈央はしばらくそんな小母を見ていたが、まさかこのまま小母の寝顔を見続けるわけにもいかない。
「メモを残して、もう行こっか。帰ってテスト勉強もしなきゃだし……」
奈央は言って、鞄から手帳を取り出すとメモのページを一枚破り、そこに『寝ていたから起こしませんでした。また明日も来るね』と書いてテレビ台の上にそっと置いた。それから大樹に顔を向けると、
「行こ」
「うん」
大樹は奈央と手を繋ぎ、小母の病室をあとにした。
エレベーターホールに向かえば、意外に多くの看護師や患者が並んでいて、エレベーターが来るのを待っていた。とても一回で乗れそうにないな、と思ったふたりは、どちらからともなく、階段で一階まで降りることにする。三、四階くらいなら、階段の方が早いだろう。
階段を降りながら、ふと奈央が思い出したように「そう言えば」と大樹に尋ねた。
「さっきの電話、誰だったの? ずいぶん慌ててたよね?」
「え? あー……」と大樹は口を濁しながら、「……母さんだよ」と苦笑いした。
「昨日、村田の家に泊まるからって嘘ついてたんだ。流石に女の子の家に泊まるなんて言えないでしょ?けど、バレちゃってさ。ほら、スマホにGPS機能があるでしょ? あれ、親に登録されてるのを忘れてて。電源切っとけば良かったんだけど、そのままにしてたから、居場所がバレてたみたいでさ、あんた今どこに居るのよっ!て叱られちゃったよ」
「それで、どう答えたの?」
奈央の問いに、大樹は頬を紅く染めながら、
「……正直に答えたよ。お付き合いしてる女の子が居て、その子のうちに泊まったって。母さんは絶句してたね。今まで女っ気なんて皆無だったから。ああ、もちろん、その……お風呂に入った事までは言わなかったよ、流石にね。で、いつから付き合ってたのって聞かれたから、一年くらい前って答えちゃった。まさか、まだ一日目です、なんて言えないもの。ほら、委員会からの付き合いだし、良いかなって。だから、ごめん。もしうちの親と会う事があったら、口裏を合わせて貰えない?」
お願い! と手を合わせて大樹は奈央に頭を下げた。
そんな大樹の姿に、奈央は大きく笑った。
相原さんもこんな笑い方をするんだな、と思いながら、大樹は「なに? なに?」と少しばかり戸惑う。
……まぁ、奈央が笑ってくれるのなら、別にいいけど。
ひとしきり笑った後、奈央は目尻を拭き、「それより、これからどうする?」と大樹に訊ねた。
「どうするって……」と大樹は首を傾げ、「家に帰ってテスト勉強の続きしないと。また補習になるのも嫌だし。大丈夫、うちの母さんにはもう説明してあるから」
「そう、だね――」
一瞬にして、奈央の表情が暗くなった。
「どうしたの? 奈央」
大樹が顔を覗き込むように訊ねると、奈央は両手で胸を掻き抱くようにしながら震える声で、「……家に帰るのが、怖いの」と口にした。
「また、あんな化け物が出てきたらって思うと、不安で仕方がないの。宮野首さんのお婆さんが言ってた。あの喪服の少女の狙いは、私だって。私の身体なんだって。どういう意味なのか私にはよく解らなかったけど、でも、それがどういうことかはすぐにわかった。ずっとそんな気はしてたから。あの日――響紀が出て行った翌朝から、何かがおかしいって思ってた。家の前の門が濡れてて、生臭い匂いがして、きっとあの時から私はもう狙われてたのよ。これを見て」
奈央はすっと右袖を捲り、その腕を露わにした。そこには大きな手形が浮かんでおり、それを目にした大樹は眉間に皺を寄せた。
「これは……」
「昨日一緒にお風呂に入ったとき、気づかなかったでしょ? 大樹くん、私の方をほとんど向いてくれなかったから、仕方がないけど。でも、これだけじゃないわ。その翌日、風邪を引いて学校を休んだ日の夜、私は一人で小母さんが帰ってくるのを待ってた。そこに現れたのよ、目に見えない、あの化け物が。アレは私の胸を後ろから弄って――きっと私を犯そうとしていたんだと思う。やめてって叫んだらどこかに消えたけど、もしあのまま何もしてなかったら、もしかしたら私、今頃は――」
そこまで言って、奈央は口を噤んだ。深い溜息を吐き、大樹に視線を向ける。
なんてことだろう、と大樹は拳を強く握りしめた。自分の知らないところで、そんなことがあっただなんて。
「その夜は何とか何事もなく明かしたけど、私は怖くて一睡もできなかった。その所為で翌日の授業中、私はウトウトしてて……そこに、またアレはやってきた。生臭匂いを漂わせながら私の身体を弄って、悦しんで」
そこでふと、奈央は顔を上げた。
「――犬の鳴き声」
「えっ?」と大樹は首を傾げた。「鳴き声?」
「犬の鳴き声がしたの、あの時。そしたら、アレの気配がすっと消えて…… そうよ、あれ、もしかしたらさっき見たお婆さんの隣に居た、犬だったんじゃ――」
なるほど、と大樹は納得する。宮野首のおばあさんが連れていた犬。だとすれば、それは……
「昔から犬の鳴き声には魔よけの力があるって言われてるから、たぶんそれでじゃないかな」
それに対して、奈央は「そうなの?」と目を丸くした。
「うん」と大樹は頷き、「確か”犬”と、去るって意味の“去ぬ”を掛けた意味だったと思うんだけど……どうだったかな? けど、宮野首の婆ちゃんと一緒に居るのは犬というよりは――まぁ、いいか、そんなことは」
大樹は奈央の右手に優しく手を添えた。腕のその手形を見つめながら、
「奈央が家に帰りたくないって言うんなら、僕はそれでも構わない。いっそこのまま二人でどこか遊びに行こうか。それで奈央の気が少しでも紛れるんなら、僕はどこにでも連れて行ってあげるし、ずっと奈央と一緒に居てあげるよ。そうだ、どうせなら人が多い所の方が安心できるんじゃないかな。ここからなら、府中のショッピングモールが一番近いよね。確か、駅からバス一本だったはず」
「え、あぁ、うん……」
それから奈央は「そうだね」と大樹の手を握り締める。
大樹もそれに応え、そして頷いた。
「よし、決まり!」
そんな大樹の言葉に、奈央はどこかぎこちない微笑みを浮かべたのだった。