駆けるように部屋を出ていく相原に、「え、えぇっ?」と大樹は動揺し、困惑した。
唐突に叫ばれた男の名前に驚き、同時にそれがいつか相原が語っていた相原家の長男・相原響紀のことであることを思い出す。確か、折り合いが悪くて、どうしても喧嘩腰みたいになってしまうとかなんとか――
慌てて大樹も相原のあとを追い駆けると、相原は玄関先の二階へ続く階段を駆け上がっていた。大樹もそれに続くように二階へ向かう。
「ど、どうしたんだよ、相原さん!」
「響紀が居たの!」
「響紀……って、小母さんたちの息子さんだっけ? その人がどうしたの?」
まさか、誰もいないと思っていたら、響紀さんがいたということだろうか。だとしたら、もしかしてさっき僕と相原さんがキスしていたところを、ばっちりと見られていたってこと?
けれど大樹の問いかけに、相原は答えなかった。代わりに、『響紀』と書かれたプレートのかかった部屋のドアを、ガチャリと開ける。
真っ暗な室内は雑多で片付けられておらず、足元には雑誌や衣類が散乱していた。
相原は灯りをつけると、部屋の中をぐるりと見回す。
しかし、そこには誰の姿も見えなかった。
「……相原さん?」
大樹はもう一度声をかけてみたが、相原はやはり返事をしなかった。
響紀の部屋をあとにして、その隣の『NAO』と書かれたプレートのかかった部屋のドアを開け、灯りを点ける。綺麗に整頓された、それでいて想像以上に物の少ない部屋を大樹は見回す。
使い古された勉強机、小さなテーブル、ベッド、ソファ、そして本棚には両手で数えられるくらいの書籍しか収められていなかった。可愛らしいのはカーテンとベッドカバーくらいのもので、その他に年頃の女の子らしいモノというものがまるで見当たらない。あまりにもシンプルなその部屋を、大樹はどうとらえるべきかわからなかった。或いは高校になるまで引越しの多い父親と過ごしてきたからか、なるべく私物を持たないように生きてきたのかも知れないと大樹は思った。
相原はそのまま自身の部屋をあとにすると、今度は二階のトイレのドアを開けた。
誰もいなかった。
しんと静まり返った二階で、相原は狼狽えたように崩折れた。
「……何で? ……どうして?」
「ねぇ、何があったの? 響紀さんがどうかしたの?」
何度話しかけても相原はまるで答えなかった。そればかりか、まるで大樹の存在を完全に忘れ去ってしまっているかのようだ。いったい、相原はどうしてしまったのだろう。突然キスしてきたかと思えば、響紀の名前を叫び、駆け出す。何に動揺しているのか、崩れ落ちて、泣きそうな表情を浮かべて、これは、何が起きているんだろう。大樹は眉間に皺を寄せる。
「相原さん……?」
床を見つめ続ける相原に、大樹は拳を握り締め、叫んだ。
「……しっかりしてよ、奈央!」
思わず大樹は、相原のことを下の名前で呼んでいた。
それが功を奏したのだろうか、ハッと肩を揺らして我に返った相原はようやく大樹に顔を上げた。
「……木村、くん?」
大樹はそんな相原を見下ろし、
「さっきからどうしちゃったの? いったい、何があったの?」
しかし、相原は大樹から視線を逸らしながら、「ごめんなさい」としか答えなかった。
大樹は腰を下ろし、相原の顔を覗き込むようにしながら静かに言った。
「……何かあったんなら、ちゃんと教えて欲しい。力になれるなら、僕は相原さんを助けたい。僕のこと、信用できない? 頼りないから?」
「そんな……そんなこと、ない……」
頭を振る相原に、大樹は「なら、」と口を開きかけて、けれど相原はそれを制止するように、
「自分のことは、自分で何とかしなきゃ……! だって、誰かに迷惑をかけるだなんて、私は絶対に嫌……!」
立ち上がり、再び二階の廊下をヨタヨタと歩き始める相原に、大樹は大きく叫んだ。
「落ち着いて! 落ち着いてよ、奈央!」
大樹は気が付くと、相原を後ろから抱きしめていた。いや、抱きしめたというより、それ以上妙な行動をしないよう、抑え込んだつもりだった。今の相原は明らかにおかしい。どうしてしまったというのか。
「は、離して……! 離してよ!」
相原は身体を捩り、大樹の腕から逃れようと激しく藻搔いた。
大樹は絶対に離すまいと、強く相原の身体を抱きしめる。
「……嫌い! 嫌いだ! アンタなんて、大嫌い!」相原は暴れ、叫んだ。「離してよ! 何で私の好きなようにさせてくれないの? 私は、私は、私のことは、私で……!」
相原は声を大にして泣き叫んだ。しばらく泣き続けて、やがて力なく崩折れ、再び廊下に膝をつく。それでも大樹は相原の身体を抱きしめたままだった。もしここで離してしまえば、相原がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならなかった。
やがて泣き疲れ、嗚咽を漏らしながら肩で息をし始めた相原に、大樹はなるべく優しく声を掛けた。
「……落ち着いた?」
その言葉に、相原は大きな溜息を一つ吐き、「……うん」と答える。
大樹に抱き締められたまま、相原は静かに涙を拭った。
そんな相原に、大樹もため息を吐く。
「……どんなに嫌われたって、僕は相原さんのこと、大好きだよ。どんな事をしても、助けてあげたいって思ってる。迷惑をかけてるなんて思わないでほしいな。僕も、そうしたいからそうしてるんだ。相原さんの力になりたいから、何でもしてあげたいんだ」
そうして、改めて大樹は相原の身体をぎゅっと後ろから抱き締めた。
今度は相原もそれを拒まず、受け入れ、肩の力がすっと抜けていくのがわかった。
相原はもう一度大きく溜息を吐き、
「嫌いって言って、ごめんなさい……」
「……いいよ」
大樹は小さく微笑んだ。
しばらくふたりはそうしていたが、大樹は自身の腕の中に相原の身体があることに改めて『自分はいったいなんてことをしているんだろう』と思いながら、その欲望にどうしても勝つことができなかった。
「あの……さ」
「……なに?」
小首を傾げる相原に、大樹は、
「今度は僕から、キスしていい?」
「嫌。絶対に、嫌」
「――そ、そっか……」
そんなの当たり前じゃないか。僕はいったい何を言っているんだ。時と場合も判らないのか。恥ずかしい、本当に恥ずかしい……!
これはさすがに嫌われてしまったか、と自分自身の言動に落胆していると、相原は誤魔化すような笑みをこぼしながら、
「だって、こんな状態の顔、木村くんに見せられないよ」
その言葉の意味が、大樹にはすぐわからなかった。
「……どういうこと?」
「眼、腫れてるし。鼻水出てるし。見せたくない」
ああ、と大樹は納得し、
「僕は気にしないけど」
「私が気にするの!」
こちらを振り向きはしなかったけれど、頬を膨らませている相原が可愛くてしかたがなかった。
そっか、と大樹は笑い、話題を変える。
「……それで結局、響紀さんがどうしたの?」
その問いに、相原が「あのね」と口を開こうとした、その時だった。
――ぴちょんっ
どこからともなく水の滴る音がして、大樹の腕の中で、相原の身体が再び強張り、震え始めた。何が、と思っているうちに、ぴちょんっ 、ぴちょんっ、その音がふたりに近づいてくる。
相原はぎゅっと大樹の腕にしがみ付き、振り返りながら叫んだ。
「――助けてっ!」
「えっ」
大樹が声に出すのと同時に、相原は大きく叫び声をあげた。
突然、相原の右腕が大きく振り上げられたかと思うと、その身体が大樹の腕の中からするりと抜けていった。
それはまるで、相原の右腕を誰かが掴んで、無理矢理大樹から引き剥がしたかのようだった。
「あ、相原さんっ!」
大樹は驚きの声を上げ、手を伸ばして相原の手を掴もうとするも、寸でのところで届かない。
まるで操り人形のように相原の身体が宙に浮かび、恐怖におびえた表情が大樹に向けられた。
「嫌! 離して! 助けて! 木村くん!」
「奈央!」
大樹は慌てて床を蹴り、相原の身体を掴もうとして、唐突にそれを阻まれた。
見えない壁か何かにぶち当たり、大樹の身体はゴロゴロと床を転がる。
何がどうなっているのか、大樹にはまるでわからなかった。
すぐに態勢を立て直して、大樹は再び相原に顔を向ける。
そこには宙に浮かんだまま激しく身悶えする相原の姿があった。
見えない何かに襲われ、今まさに蹂躙されようとしている。
そこで初めて、大樹は「やはり」と後悔した。こんなことなら、最初から宮野首たちに助けを求めておくんだった。一緒に来るべきだった、と。
その時、突然二階の灯りがバチバチと激しく明滅し、それらの影が浮かび上がった。
「……っ!」
その姿に、大樹も相原も絶句した。
まるで腐敗した団子か何かのような、複数の人間が集合体と化したようなそれらは、下卑た嗤いを浮かべながら、相原の身体を羽交い締めにして弄んでいたのである。