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大樹はバスに揺られながら、隣に立つ相原との今の状況に、今更戸惑いを覚えていた。
相変わらずの雨に窓ガラスは濡れ、曇った向こう側にはぼんやりと薄闇が広がりつつある。すれ違う対向車のヘッドライトが窓に反射して、時折とても眩しかった。
果たして本当に自分はこんなところでこんなことをしていていいのだろうか。相原を家まで送っていくのは良い。けれど、まさか本当に家に泊まるわけにはいかないだろう。さすがにそれはどうなんだ、と大樹は真剣に悩んでいた。
相原の小母曰く、小父は仕事からの帰宅がいつも遅くなるという。小母が入院している今、小林の件がある以上、少なくとも小父が帰宅するまでは一緒に居るべきだろう。
果たして小林は何を考えているのか、『他のみんな』と共に何を企んでいるのか、それがわからない以上、相原をひとりにしておくわけにもいかなかった。
相原とふたりっきりになること、それに加えて小林が今もどこかで自分たちを見ているのではないかという恐怖に近い思いに、大樹はどうしても落ち着かなかった。そわそわしながらじっと窓の外を見つめ、その恐怖が自分たちを追ってきているのではないかという妄想に囚われる。
この薄闇の中で、奴らが今まさに相原や自分に襲い掛かろうと画策しているのだと思うと、あらかじめ村田や矢野、宮野首たちに相談しておくべきだったと今更のように後悔した。
自分ひとりでいったい、何ができるというのか。四人そろえばこそ、小林らに対抗することができるんじゃないのか。
大樹はポケットのスマホに手を伸ばそうとして――やめる。
いきなり自分の友人たちを呼びだして、相原はどう思うだろうか。
突然のことに驚いて、変にまた距離を置こうとしてしまうのではないのか。
もともと人付き合いは苦手なのだ。よく知りもしない人間が家の中に入り込んで委縮させてしまうようなことがあってはならない。
ここはやはり様子を見て、必要とあれば、その時は……
ふと、大樹のその手を握る温かい感覚に、
「えっ」
大樹は眼を見開いて相原に顔を向けた。
相原は大樹に微笑むと、大樹の肩にそっと肩を寄せるようにして、
「……ありがと」
「うん」
大樹も思わず微笑み返す。
けれど次の瞬間、窓の外に視線を向けた相原の表情が凍り付いた。
大樹の手を握っていた相原の手が、さらに強く大樹の手を握り締める。
「ど、どうしたの……?」
大樹の問いかけに、けれど相原は口を開かなかった。
ひどく動揺した様子で、無言のまま、もう一度ぎゅっと大樹の手を強く握りなおした。
「……相原さん?」
そしてそれっきり、バスを降りるまで、相原はひと言も喋ることはなかったのだった。
いったい、相原さんは何を目撃したんだだろう。どうしてあんなにも動揺していたのだろう。
大樹は疑問に思いながら、相原に案内されて彼女の家へと向かった。
小さな住宅地の中に相原家はあって、小さな門を抜けて家の中に入ると、ひっそりとした闇がそこにはあった。空気は重く、冷たく、どこか臭気を感じ不気味だった。
何かがここには潜んでいる。そう思った瞬間、相原が再び大樹の手を強く握りしめてきた。
「……どうしたの?」
けれど相原はそれに対して、「何でもない」と小さく答えると手を放して靴を脱ぎ、玄関と廊下の灯りを点ける。
「上がって」
「あ、うん……」
大樹が通されたのは、廊下を数歩進んだ先の左に位置する居間だった。
フローリングの上に敷かれたマット、低い大きなテーブルの向こう側にはテレビ台とテレビが見える。
「どうぞ、座って」
大樹は相原に言われるがまま、テーブルの前に腰を下ろし、通学鞄を置いた。
ここでいつも相原は過ごしているのか、と思うと、なんだか心がざわざわして落ち着かなかった。
相原は隣の台所と今の電気を点け、
「コーヒーで良い?」
通学鞄を脇に置きながら、相原は言った。
「あ、うん。ありがとう」
何となくきょろきょろと居間の中を見回し、大樹はそう返事した。
相原は台所に立つと、慣れた手つきでコーヒーの準備を始める。たぶん、いつもそうしているのだろうか。それだけで、学校での普段の姿とは何だか印象が変わったような気がした。
ほどなくして、相原はふたり分のコーヒーをトレーに乗せて、戻ってきた。
「あ、ありがとう」
そんな大樹の右隣に、相原も腰を下ろした。
ふわりと香る石鹸のような匂いに、大樹はぞくりとした。いつも以上に相原との距離は近かった。袖が触れ合う程の近さに、さらに落ち着かなくなってくる。それを誤魔化すように大樹はコーヒーカップを手に取ると、ひと口コーヒーを口に含んだ。ほろ苦い味が口の中いっぱいに広がり、少しだけほっとする。
窓の外からは相変わらずザァザァと大きな音を立てて雨が降り続いていた。重たい雲が空を覆いつくし、さらに夜の闇が近づいていることを告げていた。近づいているのが夜だけならいいのだけれど、と考えていると、
「……苦くないの?」
相原がそう訊ねてきた。
「ん?」思わぬ質問に大樹は少しばかり首を傾げて、「大丈夫だよ? いつも何も入れてないから」
どちらかというと、大樹は砂糖やミルクたっぷりよりも、ブラックの方が好みだった。
「そうなんだ」と相原は自身の持つカップに視線を落とす。「凄いね。なんか、大人って感じ」
「そんなことないよ」大樹は思わず笑い、「味覚なんて、人それぞれだと思うよ。僕がたまたま苦いのが好きなだけでさ。相原さんは、苦いのは苦手?」
「うん、苦手」そう答えた相原も小さく笑うと、「実はコーヒーもあんまり好きじゃないんだ。良かったら、私のも飲む?」
「ああ、じゃあ、貰うよ」
何の気なしに手を伸ばしかけて――大樹は眉間に皺を寄せて動きを止める。
……え、飲むの? 本当に? 今、相原さんが口をつけたんだよ? いいの? マジで?
思いながら、改めて大樹は相原からカップを受け取り、とりあえず机の上にそれを置いた。
そのカップをじっと見つめて、本当に飲むべきかどうか逡巡してしまう。
そんな大樹の様子に気付いたのだろう、相原は「もしかして」と口元を緩ませながら、
「私が口をつけたから?」
「えっ」
大樹はその瞬間、全身が熱くなるのを感じ、相原に顔を向けた。
そんなの当たり前じゃないか。こんな、相原さんが口をつけたもの、そんな、堂々と……
「私が口をつけたから、それが気になったんでしょ?」
「あ、いや……」と大樹は身体を縮こまらせながら、「だって、ほら……」
その途端、相原は珍しく大きく声を出して笑った。本当におかしそうに、楽しそうに。
それから思い立ったようにニヤリと口元に笑みを浮かべると、
「じゃあ、こうすれば良い?」
相原は言って大樹の持つカップに手を伸ばすと、それを一口飲んで見せた。
それを見て、大樹は思わずぽかんと口を開ける。
「ほら、これでおあいこでしょ? 気にし過ぎだよ、木村くんは」
相原はふたたびそのカップを大樹に手渡しながら、もう一度笑った。
大樹の頭は今にも煙が出てショートしてしまいそうだった。そこまで求めていたわけじゃない。そんなことを期待していたわけじゃない。いや、期待していなかったわけじゃない。少しは期待していたはずだ。けれど、そんなことが現実に起こるだなんて思っていなかったし、思っていた以上に相原は堂々としていたし、気にし過ぎだよとまで言われてしまって――大樹の頭はパニックを起こしてしまいそうだった。
相原の顔を直視できず、窓の外に顔を向けてしまう。
それから必死に話題を逸らそうとして、外から車の音が聞こえてきたことに気が付いた。大樹は「あ、あ、ほらっ!」と窓の外を指さし、「車の音がしたよ。 お父さん……じゃないか、小父さん、帰ってきたんじゃないの?」
小母さんが入院しているのだ。小父さんだって、仕事を早く切り上げて帰ってきたに違いない、きっと。
相原は不思議そうに首を傾げて立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。そこから見えるのであろう玄関の方へ顔を向けて、その目が大きく見開かれるのが大樹にはわかった。相原は慌てたようにカーテンをガッと閉める。
「……どうしたの? 違った?」
大樹の問いかけに、けれど相原は答えなかった。
カーテンをぎゅっと握りしめたまま、まるで立ち竦んでいるかのようだ。
やがて相原は大樹に顔を向けた。その表情は何かに怯えているようだった。恐怖、絶望、諦め、それらの感情をぐちゃぐちゃに混ぜて固めたような、普段の相原とは全く異なる顔をしている。いったい、何があったらこんな表情になるのだろうか。
大樹は戸惑いながら、
「……相原さん、大丈夫? どうしたの? 顔が真っ青だけど――」
声をかけたが、しかし相原はそれにも返答しなかった。代わりに「ふふっ」と不気味に嗤い、にっこりと引き攣ったような微笑みを浮かべた。いや、これは微笑みなんかじゃない。何かがおかしい、これは、本当に相原さんなのか? 大樹は今、相原の身に何が起きているのか、全く理解することができず、怯えにも似た感情を覚えていた。
相原はゆっくりと大樹のところまで歩み寄ってくると、すっと大樹の身体に両手を伸ばしてきた。いったい何を、と身構える大樹の身体を、相原はぎゅっと強く抱きしめてくる。
「――へっ? あ、相原さんっ?」
思わず声が裏返った。どうしていきなり抱きしめられたのか、わからなかった。
相原の胸の感触が、自身の胸から伝わってくる。心臓が早鐘を打ち、耳にかかる相原の息が生々しくてゾクゾクと背筋を駆け抜けていった。身体が火照っていく。呼吸が早まり、居ても立っても居られなかった。顔を上げた相原と視線が交わり、これはダメだ、と慌てて顔を背けようとしたところで、相原は大樹の顔を両手でそっと押さえてそれを許さなかった。
次の瞬間、何の躊躇いもなく重ねられる互いの唇。
柔らかいその感触に、大樹はビクンッと身体が跳ねた。眼を大きく見開き、どうして相原が突然そんなことをしてきたのか全くわからないまま、されるがまま身をゆだねてしまう。
口の中に相原の舌が伸びてきて、大樹の頭の中はぼんやりしてきた。互いの舌が激しく絡まり、いつの間にか大樹も相原を強く求めていた。顔を押さえていた相原の手を取り、ぎゅっと強く握りしめ、互いの指を絡ませる。執拗に舌を絡ませてくる相原に、大樹の下半身が大きく反応して、その感情を抑えきれなくなりそうだった。
このまま一つになりたかった。互いに溶け合い、融合し、全てを忘れてしまいたかった。
頭が痺れてくる。何も考えられない。そこには欲望しかなく、今や懸念すべきことは何一つなかった。
あるのは心と肉体と繋がり。それ以外は何も必要ではなかった。
大樹はかつてこれほどまでに満たされた感情を知らなかった。
男女の関係というものに、さほどの興味を抱かなかった。
けれど、今は違う。全てが満たされている。
いや、或いはこれから僕は、まだまだもっと満たされるのかもしれない。
彼女の全てに包まれて、満たされて、そうして――
……いや、違う。そうじゃない。こんなこと、僕は求めてなんかいない。
相原さんのことは確かに好きだ。愛していると言っていい。
けれど、こんな流されるようじゃ駄目だ。
なにより、明らかに相原さんの様子はいつもと違う。
大樹は相原の唇から逃れるように離れると、彼女の肩を強く掴んで、引き離すように押しやった。
「きゃっ!」
相原が、驚いたような叫びを漏らす。
それから大樹は多くため息を吐き、改めて相原に顔を向けた。
「……おかしいよ、相原さん」
「――えっ」
視線を不自然に泳がせる相原に、大樹は続ける。
「僕の知っている相原さんは、こんなことするなんて到底思えない子だったのに。多少つっけんどんなしゃべり方だったけど、しっかり者で、物事をよく考えて、冷静な子だと思ってたのに……! そりゃぁ、僕だって男だから、こういうことちょっとは期待してたよ。相原さんのこと好きだし、これからもずっと一緒に居たいと思ってるし、それに……その……一つになりたいとかも思ってるよ。だけど、僕たちまだ高校生だし、こういうことはもっと大人になってからっていうか、その……僕にも心の準備があるし、それにほら、そういうのはもうちょっと準備してからっていうか、お互いの事をもっとよく知ってからって言うか――」
段々としどろもどろになっていく自分の言葉に、大樹は改めて動揺してしまう。自分はいったい何が言いたいのか、結局どうしたいのか、自分でも解らなくなっていた。
だから、つまり、と口にしかけた時、
「響紀!」
突然相原はそう叫ぶと大樹の手を振り払い、立ち上がった。