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第15話

   *******


 やってしまった。言ってしまった。やらかしてしまった。


 今まで恥ずかしくて、怖くて、何もできずにいたというのに、こんなところでついにデートに誘ってしまった自分に驚愕を隠せない。


 大樹は自分の席に向かうなり、投げるように鞄を床に置くと、机に突っ伏す。


 どきどきと胸が早鐘を打っている。全身から汗が噴き出すほど体が熱い。手足が震えて止まらず、落ち着くまでに相当な時間が必要だった。


 相原の様子はどうだった? 迷惑そうだった? 困っていた? 気味悪がっていた?


 ――いや、そんなことはなかった……と、思う。


 傘を取り落としてしまうほど動揺していたのは確かだったけれど、相原も頬を紅く染めながら、じっと僕のことを見つめていた。それが何を意味しているのか、大樹は期待せずにはいられなかった。きっと相原も僕のことを意識してくれていたのだ、と大樹は心の底から信じたかった。


 そうでなければ、相原もあんな表情をするはずがない。


「くうぅぅぅう――――っ!」


 思わず、変な声が喉の奥から漏れてくる。足をバタバタと上下させて、床を何度も強く踏みつけた。この感情をどうすれば良いのか持て余し、いまだ引かない顔の熱さに強く瞼を閉じる。


 これは期待していいよね? 信じても大丈夫だよね? 大きな第一歩だったよね?


 大樹がそう自分自身に問うた、その時だった。



 ――ぴちょんっ



 水の滴る音が、どこかから聞こえたような気がした。


 その瞬間、ぞくりと全身に悪寒が走った。


 それまで感じていた身体の熱が一気に冷め、大樹は大きく目を見張った。


 気のせいだろうか、わずかに生臭いにおいが漂ってくる。


 これは、いったい――


 不審に思い、大樹は眉を寄せながら頭をあげ、教室の中を見回した。


 談笑するクラスメイトたち。


 黒板を綺麗にしている日直。


 開け放たれたドアから見える、廊下を行き来する生徒たち。


 窓の外に見えるのは、鈍色の雲から降りしきる大粒の雨。



 ――ぴちょんっ



 再び、水の滴る音が聞こえる。


 なんで、と思いながら、もう一度廊下に目をやった時だった。


「――っ」


 大樹はその姿を見て、息を飲んだ。


 いつの間にか、そこには小林が立っていた。


 全身濡れそぼった服装で、じっと大樹を睨みつけるように見つめている。


 どうして、こんなところまで……


 眼を見張る大樹の耳に、小さく声が聞こえてきた。


『……許さない』


 え、と思った時には、小林の姿は見えなくなっていた。


 大樹は慌てて席を立ち、廊下に出る。


 右を見ても左を見ても、そこに小林の姿はどこにもなかった。


 ただ足元に、大きな水滴がぽつぽつと廊下を濡らしている。


「な、なぁ、今、小林がいなかった?」


 廊下側のすぐそばの席に座るクラスメイトの出原いではらに、大樹は訊ねる。出原は昨年も同じクラスで、小林のことを知っているはずだった。


「……小林? 誰だっけ、そいつ」


「ほら、覚えてない? 去年、僕らのC組にいた男子生徒。ずっと来てなかったけど、二年生になる前に学校を辞めていった」


「あぁ、そういえばそんな奴いたなぁ。忘れてたわ」


「今、ここに立ってた気がするんだけど」


「いやぁ?」と出原は首を傾げて、「誰もいなかったけど?」


「そ、そう……」


 大樹は今一度廊下を見回し、けれどやはりどこにも小林を見つけられず、「ありがとう」と出原に手を振って自席に戻った。


 嫌な予感がして、しかたがなかった。


 大きな不安が胸をよぎって、大樹はその後の授業をまともに受けることができなかった。


 まさか、もしかして、そんなはずは、と色々なことが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。


 やがて一時限目の授業が終わり、大樹はたまらず相原のクラスに足を向けた。


「――それってつまり、どういうことさ?」


 そこで大樹は、矢野と宮野首が向かいあい、クラス前の廊下でこそこそと話し合っているところに遭遇した。何の話をしているんだろうと、大樹は足を止めて耳を傾ける。


「……わからない」

 どこか深刻そうに、宮野首は首を振った。


「あたしはてっきり、また玲奈の身に何かあったんだとばかり思ってたけど……」


「私も、またあの男が私のところに現れたんだって思ってた」


 あの男? いったい、このふたりは何の話をしているんだろう。


「どうする? 直接訊いてみる?」


「う~ん、なんて言って?」


「ほら、こないだ親戚の人――響紀さん、だっけ? 家から出て行っちゃったって相談受けたでしょ? どうなった、って訊いてみるのは?」


「確かに、それなら訊きやすいかも知れないけど……」


「……そんなに悩む必要ある? 相原さんもたぶん、何かに気付いてはいるんでしょ?」


「――たぶん」


 そこで突然相原の名前が出てきて、大樹は眉を寄せた。


 相原さんも、何かに気付いてはいる。それはもしかして、小林のことだろうか。


 やはり相原さんも、小林が何かしようとしていることに気付いているのだろうか。


 そして、このふたりもそれを知っている。


「なら、やっぱりもう、直接訊いちゃえばいいんじゃない?」


「……だけど、普通に考えたら明らかに怪しい話じゃない」


「普通に考えたらね。でも、実際、普通じゃないことが起こってるんだよ?」


「それはそうだけど……」


「ねぇ、玲奈は何を心配してるの?」


 眉間にしわを寄せる矢野に、宮野首は口ごもりながら、「それは……」と言い淀んだ。


 普通に考えたら、怪しい話。普通じゃないことが、起こっている。


 ――やっぱり、そうだったんだ。大樹は何故かその言葉に確信した。


 たぶん、小林は、もう……


 彼の身に何があったのかは知らないけれど、明らかに良くないことが起こっている。


 それはたぶん、かつて自分が宮野首や矢野たちと立ち向かってきた、アレらにまつわるような事柄に違いない。確証はないのだけれど、感覚としてそれが大樹には解っていた。


 なら、なおさら逃げるわけにはいかないと大樹は思った。これは、自分がどうにかしなければならないことだ、と。


 矢野は大きくため息をひとつ吐くと、

「――もう少しだけ、様子を見てみる?」


「……うん」

 宮野首が小さく頷く。


 けれど矢野は、そんな宮野首に眉を寄せて、

「でも、それで相原さんの身に何かあったら――」


「――大丈夫だよ」


 大樹は気付くと一歩前に踏み出して、ふたりにそう声をかけていた。


「僕が、相原さんを見てるから」


 宮野首は驚いたような表情で大樹に振り向く。


「……木村くん、いつからそこに?」


「ごめん、立ち聞きする気はなかったんだ」大樹は謝り、首を振った。「相原さんのことが気になって、ちょっと様子を見に来ただけだったんだけど……」


 そんな大樹に、矢野も眉を寄せながら、

「あんた、本当に大丈夫なの? っていうか、もしかして何か知ってる?」


「何も知らないけど、何かあったら、すぐにふたりに知らせるから、大丈夫」


 たぶん、予想していることが事実だったら、自分ひとりで立ち向かえるとは到底思えない。その時には、このふたりに――そして村田に――助けを求めることになるだろう。


 宮野首はどこか安堵したように胸を撫でおろすと、

「そう? お願いね、木村くん」


「うん」


 深く頷く大樹に、矢野は小さく笑んでから、

「……っていうか、前も聞きたかったんだけど、あんたいったい、いつから相原さんと?」


「一年生の頃から、ずっと図書委員で一緒に仕事をしてたんだ」


 今さらもう、恥ずかしがる必要もないだろう、と大樹は思った。


「へぇ、一年生の頃から」矢野は目を丸くして驚いたように、「全然気づかなかった。言ってくれればよかったのに。あたしはてっきり、あんたは女に興味が無いんだと思ってたからさ」


「なにそれ」大樹は苦笑しながら言って、「そんなことはないよ。僕だって、いつまでも村田とばかり遊んでるわけじゃないんだから」


「玲奈には興味なかったくせに?」


「えぇっ!」


 またその話をしてくるか! と大樹は慌てながら宮野首に視線を向けた。


「ほら、何年か前に四人で花火を見に行った時も、傍から見たらダブルデートって感じだったのに、あんたはそんな素振り一切なかったでしょ? 玲奈も結構可愛い方だと思うけど、これまで一度も告ろうとしなかったし」


「そ、それは……」


 本人を目の前にして言い淀む大樹に、宮野首は呆れたようにため息を吐いてから、

「桜、やめよう、そんな話」


 すると矢野は唇を尖らせながら、

「そう? あたしは気になるんだけどなぁ……」


 その時、二時限目の授業を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。


 大樹は内心ほっとしながら、「それじゃぁ」とふたりに手を振って踵を返す。


「とにかく、相原さんのことは僕に任せて。何かわかったら、すぐに連絡するから」


「うん、よろしくね」

「頑張り過ぎないでよ!」


 ふたりの言葉を背に、大樹は自分の教室へと戻るのだった。


 あのふたりが認識してくれているのであれば、たぶん、大丈夫だ。


 そう思いながら。

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