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やってしまった。言ってしまった。やらかしてしまった。
今まで恥ずかしくて、怖くて、何もできずにいたというのに、こんなところでついにデートに誘ってしまった自分に驚愕を隠せない。
大樹は自分の席に向かうなり、投げるように鞄を床に置くと、机に突っ伏す。
どきどきと胸が早鐘を打っている。全身から汗が噴き出すほど体が熱い。手足が震えて止まらず、落ち着くまでに相当な時間が必要だった。
相原の様子はどうだった? 迷惑そうだった? 困っていた? 気味悪がっていた?
――いや、そんなことはなかった……と、思う。
傘を取り落としてしまうほど動揺していたのは確かだったけれど、相原も頬を紅く染めながら、じっと僕のことを見つめていた。それが何を意味しているのか、大樹は期待せずにはいられなかった。きっと相原も僕のことを意識してくれていたのだ、と大樹は心の底から信じたかった。
そうでなければ、相原もあんな表情をするはずがない。
「くうぅぅぅう――――っ!」
思わず、変な声が喉の奥から漏れてくる。足をバタバタと上下させて、床を何度も強く踏みつけた。この感情をどうすれば良いのか持て余し、いまだ引かない顔の熱さに強く瞼を閉じる。
これは期待していいよね? 信じても大丈夫だよね? 大きな第一歩だったよね?
大樹がそう自分自身に問うた、その時だった。
――ぴちょんっ
水の滴る音が、どこかから聞こえたような気がした。
その瞬間、ぞくりと全身に悪寒が走った。
それまで感じていた身体の熱が一気に冷め、大樹は大きく目を見張った。
気のせいだろうか、わずかに生臭いにおいが漂ってくる。
これは、いったい――
不審に思い、大樹は眉を寄せながら頭をあげ、教室の中を見回した。
談笑するクラスメイトたち。
黒板を綺麗にしている日直。
開け放たれたドアから見える、廊下を行き来する生徒たち。
窓の外に見えるのは、鈍色の雲から降りしきる大粒の雨。
――ぴちょんっ
再び、水の滴る音が聞こえる。
なんで、と思いながら、もう一度廊下に目をやった時だった。
「――っ」
大樹はその姿を見て、息を飲んだ。
いつの間にか、そこには小林が立っていた。
全身濡れそぼった服装で、じっと大樹を睨みつけるように見つめている。
どうして、こんなところまで……
眼を見張る大樹の耳に、小さく声が聞こえてきた。
『……許さない』
え、と思った時には、小林の姿は見えなくなっていた。
大樹は慌てて席を立ち、廊下に出る。
右を見ても左を見ても、そこに小林の姿はどこにもなかった。
ただ足元に、大きな水滴がぽつぽつと廊下を濡らしている。
「な、なぁ、今、小林がいなかった?」
廊下側のすぐそばの席に座るクラスメイトの
「……小林? 誰だっけ、そいつ」
「ほら、覚えてない? 去年、僕らのC組にいた男子生徒。ずっと来てなかったけど、二年生になる前に学校を辞めていった」
「あぁ、そういえばそんな奴いたなぁ。忘れてたわ」
「今、ここに立ってた気がするんだけど」
「いやぁ?」と出原は首を傾げて、「誰もいなかったけど?」
「そ、そう……」
大樹は今一度廊下を見回し、けれどやはりどこにも小林を見つけられず、「ありがとう」と出原に手を振って自席に戻った。
嫌な予感がして、しかたがなかった。
大きな不安が胸をよぎって、大樹はその後の授業をまともに受けることができなかった。
まさか、もしかして、そんなはずは、と色々なことが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
やがて一時限目の授業が終わり、大樹はたまらず相原のクラスに足を向けた。
「――それってつまり、どういうことさ?」
そこで大樹は、矢野と宮野首が向かいあい、クラス前の廊下でこそこそと話し合っているところに遭遇した。何の話をしているんだろうと、大樹は足を止めて耳を傾ける。
「……わからない」
どこか深刻そうに、宮野首は首を振った。
「あたしはてっきり、また玲奈の身に何かあったんだとばかり思ってたけど……」
「私も、またあの男が私のところに現れたんだって思ってた」
あの男? いったい、このふたりは何の話をしているんだろう。
「どうする? 直接訊いてみる?」
「う~ん、なんて言って?」
「ほら、こないだ親戚の人――響紀さん、だっけ? 家から出て行っちゃったって相談受けたでしょ? どうなった、って訊いてみるのは?」
「確かに、それなら訊きやすいかも知れないけど……」
「……そんなに悩む必要ある? 相原さんもたぶん、何かに気付いてはいるんでしょ?」
「――たぶん」
そこで突然相原の名前が出てきて、大樹は眉を寄せた。
相原さんも、何かに気付いてはいる。それはもしかして、小林のことだろうか。
やはり相原さんも、小林が何かしようとしていることに気付いているのだろうか。
そして、このふたりもそれを知っている。
「なら、やっぱりもう、直接訊いちゃえばいいんじゃない?」
「……だけど、普通に考えたら明らかに怪しい話じゃない」
「普通に考えたらね。でも、実際、普通じゃないことが起こってるんだよ?」
「それはそうだけど……」
「ねぇ、玲奈は何を心配してるの?」
眉間にしわを寄せる矢野に、宮野首は口ごもりながら、「それは……」と言い淀んだ。
普通に考えたら、怪しい話。普通じゃないことが、起こっている。
――やっぱり、そうだったんだ。大樹は何故かその言葉に確信した。
たぶん、小林は、もう……
彼の身に何があったのかは知らないけれど、明らかに良くないことが起こっている。
それはたぶん、かつて自分が宮野首や矢野たちと立ち向かってきた、アレらにまつわるような事柄に違いない。確証はないのだけれど、感覚としてそれが大樹には解っていた。
なら、なおさら逃げるわけにはいかないと大樹は思った。これは、自分がどうにかしなければならないことだ、と。
矢野は大きくため息をひとつ吐くと、
「――もう少しだけ、様子を見てみる?」
「……うん」
宮野首が小さく頷く。
けれど矢野は、そんな宮野首に眉を寄せて、
「でも、それで相原さんの身に何かあったら――」
「――大丈夫だよ」
大樹は気付くと一歩前に踏み出して、ふたりにそう声をかけていた。
「僕が、相原さんを見てるから」
宮野首は驚いたような表情で大樹に振り向く。
「……木村くん、いつからそこに?」
「ごめん、立ち聞きする気はなかったんだ」大樹は謝り、首を振った。「相原さんのことが気になって、ちょっと様子を見に来ただけだったんだけど……」
そんな大樹に、矢野も眉を寄せながら、
「あんた、本当に大丈夫なの? っていうか、もしかして何か知ってる?」
「何も知らないけど、何かあったら、すぐにふたりに知らせるから、大丈夫」
たぶん、予想していることが事実だったら、自分ひとりで立ち向かえるとは到底思えない。その時には、このふたりに――そして村田に――助けを求めることになるだろう。
宮野首はどこか安堵したように胸を撫でおろすと、
「そう? お願いね、木村くん」
「うん」
深く頷く大樹に、矢野は小さく笑んでから、
「……っていうか、前も聞きたかったんだけど、あんたいったい、いつから相原さんと?」
「一年生の頃から、ずっと図書委員で一緒に仕事をしてたんだ」
今さらもう、恥ずかしがる必要もないだろう、と大樹は思った。
「へぇ、一年生の頃から」矢野は目を丸くして驚いたように、「全然気づかなかった。言ってくれればよかったのに。あたしはてっきり、あんたは女に興味が無いんだと思ってたからさ」
「なにそれ」大樹は苦笑しながら言って、「そんなことはないよ。僕だって、いつまでも村田とばかり遊んでるわけじゃないんだから」
「玲奈には興味なかったくせに?」
「えぇっ!」
またその話をしてくるか! と大樹は慌てながら宮野首に視線を向けた。
「ほら、何年か前に四人で花火を見に行った時も、傍から見たらダブルデートって感じだったのに、あんたはそんな素振り一切なかったでしょ? 玲奈も結構可愛い方だと思うけど、これまで一度も告ろうとしなかったし」
「そ、それは……」
本人を目の前にして言い淀む大樹に、宮野首は呆れたようにため息を吐いてから、
「桜、やめよう、そんな話」
すると矢野は唇を尖らせながら、
「そう? あたしは気になるんだけどなぁ……」
その時、二時限目の授業を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
大樹は内心ほっとしながら、「それじゃぁ」とふたりに手を振って踵を返す。
「とにかく、相原さんのことは僕に任せて。何かわかったら、すぐに連絡するから」
「うん、よろしくね」
「頑張り過ぎないでよ!」
ふたりの言葉を背に、大樹は自分の教室へと戻るのだった。
あのふたりが認識してくれているのであれば、たぶん、大丈夫だ。
そう思いながら。