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怪我は思ったよりも軽かった。けれどそれはあくまで『思ったよりも』という程度であって、右腕や肋骨にはひびが入っていたし、身体中の至る所に擦り傷ができていてズキズキと痛んだ。何度も打った頭も病院で検査してもらったが、今のところ特に異常なし。但し数週間は気を付けて様子を見るよう強く言われた。当初あまりの痛みに入院が必要かと思ったが、特にそういうこともなく、しばらく通院ね、と言われただけだった。
大樹と小林の間で何があったのか、学校から慌てた様子で駆けつけてきた担任は青ざめながら問いただしてきたが、正直なところ、どうして自分がこんな目に遭わなければならなかったのか大樹には解らず、ただ起こった事実だけを伝えて「詳しいことは小林くんに聞いてください」としか言えなかった。果たして小林がどう答えたのかは、大樹とは別の部屋で治療を受けていたようなので、その日は結局わからなかった。
それから翌日、金曜日。大樹は学校を休んで家で一日中横になっていた。動くと体のあちこちが痛くてたまらず、何とか痛み止めでそれに耐えることしかできなかった。しばらくこの痛みが続くのかと思うと辟易したが、命があるだけ全然マシだ。五十段以上もあるあの長い階段から転げ落ちてこの程度で済んだのが不思議なくらいだ。恐らく小林にしがみついてふたりしてゴロゴロと転がり落ちたおかげで、彼がクッション変わりとなってくれたのだろう。小林がどれほどの負傷をしたのか大樹は知らないけれど、そもそもが彼のせいでこんなことになったのだから、自分が気に病む必要もないだろうと思った。
さらに土曜日。目が覚めて親に手伝ってもらいながら服を着替えたところで、担任が大樹の家を訪ねてきた。小林からも事情を聞いてきたらしい。大樹の怪我の様子を見るのと、その報告に来てくれたのだった。
担任(これは小林の担任と大樹の担任のふたりで聞いたらしい)によると小林曰く、「悪いのは俺じゃない。アイツが相原を泣かせたせいだ」の一点張りだったという。ところが「相原と付き合っているのか」という質問に対して、小林は口を濁しながらそれを否定した。完全なる片思いであり、ただ「陰ながら彼女を守りたかった」と答えたそうだ。実際に相原が泣いた原因を彼女自身から聞いたというわけでもなく、前日に大樹と相原が仲良さそうに図書委員の仕事をしていたこと、一緒に帰宅していったこと、にもかかわらず、翌日には駐輪場で大樹から逃げるように教室に向かう相原の姿を見かけ、さらに昼休憩中にどこかへ行っていた相原が、教室に戻ってきたときには泣いていたその姿を見て、原因は大樹にあるに違いないと勝手に思い込んだのだ。昼休憩に相原が教室から出ていったのも、大樹と会っていたのだと小林は思っていたらしい。さらに小林の勘違いを挙げるなら、大樹と相原が付き合っているという妄想だ。つまるところ、小林が大樹を問い詰めたり掴みかかってきたりしてきたのは、大樹に対する嫉妬によるものだったのだ。
「木村くんと相原さんは、実際、付き合っているの?」
担任に訊ねられて、大樹は「いいえ」と素直に首を横に振った。それから「僕と相原さんは」と口を開きかけて、次に出てくるべきはずの言葉が全く出てこなかった。しばらく口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。
果たして自分と相原の関係とは、いったい何なんだろう。同じ図書委員というだけで、それ以上でも以下でもない。クラスだって違うし、まともに話をしたのだって一昨日の水曜日が初めてのことだった。入学してしばらくしてから相原奈央の存在を知ったし、図書委員や廊下ですれ違うたびに彼女に惹かれていった、というだけで、結局は大樹自身も小林と立場はほとんど変わらない。むしろクラスが違う分、同じクラスの仲間とも友達とも言えなかった。
――ただの、他人。そう考えてしまうと、何とも虚しくて心を締め付けられた。胸が苦しくなった。それだけは認めたくなかった。
だから、大樹は答えた。
「僕と相原さんは、友達です」
日曜日を挟んで翌週、月曜日。
大樹は右腕に包帯を巻いた状態で自転車に乗ることができず、仕方なくラッシュに揉まれながらバスでの通学を余儀なくされた。まだ身体中がズキズキ痛んだが、動けないと言う程でもない。親や担任は無理しなくていいんだよと言ってくれたが、大樹にはどうしても学校に通いたい理由があった。そのために、普段より早く目を覚まして家を出たのだ。
空は雲一つないほど晴れ渡り、太陽は燦燦と輝いていた。朝の天気予報によれば、もうすぐ梅雨が明けるらしい。鬱々とした天気が続いていただけにそれは喜ばしいことで、大樹にとってそれは自身の心を投影しているかのようでもあった。
大樹はバスセンターから高校までの道のりを、軽い足取りで歩いていた。何とも清々しい気分だった。自分が相原とどうあるべきか、どうしていきたいのか、どう接していくべきか、それらの想いが大樹の中で明確になったことで、何かを悟ったようだった。一刻も早く相原に会いたくて、大樹は思わず足を速める。
「……あれ?」
その想いが天に届いたのだろうか、と大樹は思った。目の前に、歩道を歩く相原奈央の後ろ姿が見えたのだ。いつもなら自転車で通学しているはずなのに、何故か今日は相原もバスでの通学だったらしい。そこにどこか運命的なものを感じて、大樹は顔を綻ばせながら、
「相原さん、おはよう!」
相原は「あっ」と肩を小さく振るわせるとこちらを振り向き、
「おはよう、きむ――えぇっ!」
これまで聞いたことのないような、素っ頓狂な声をあげたのだった。
どうやら自分と小林の間で起こったことなど、当然のように知らないらしい。それなら、このまま知らないままでいいだろう。わざわざ話すようなことでもない。変に気を使わせてしまうかもしれない。そんなの、僕は望んでいない。
「ど、どうしたの、それ!」
目を丸くしながら問う相原に、木村は「あははは」と笑ってから、
「いやぁ、うちの近くに公園があってさ、そこに五十段くらいある階段があるんだけど、そこで思いっきり転んじゃって。折ったわけじゃないんだけど、ヒビはいちゃってさ。しばらく固定してろって。全治一か月弱だったかな?」
「……そ、そうなんだ」と相原は眉間に皺をよせて、「――大丈夫なの?」
「たぶんね」と大樹は頷く。「物に当てたり無理に動かさなければそんなに痛くもないし。ただこの状態だから自転車も運転できそうになくて、しばらくバス通学」
それから大樹は改めて相原に訊ねた。
「そう言えば、相原さんは? 今日は自転車じゃないんだね」
「え、あぁ、その――」と相原は言葉を濁すように小さく笑って、「ちょっと、壊れちゃって。買い替えるまで、私もしばらく歩きなの」
「そうなんだ。大変だったね」
言って、大樹は相原と並んで歩き始めた。
ただ一緒に歩いているだけだというのに、大樹の心はそれだけで満たされていた。相原も、先日のように逃げるように駆けていくなんてことはせず、むしろまるで寄り添うように、大樹の隣を歩いてくれた。その様子はどこか全体的に柔らかく、口元には小さく笑みを浮かべていた。あの日泣いていたという理由について聞いてみたい気もしたけれど、今は遠慮しておく。こんな気持ちのいい朝に、聞くべきことでもないだろうと大樹は思った。
友達なら、なおさらだ。
代わりに大樹は、精いっぱいの笑顔を相原に向けて、
「……いい天気だね」
相原も、そんな大樹ににっこり微笑むと、
「――そうだね」
ふたり並んで、空を見上げた。