大樹はその言葉に、思わずきょとんと小林を見つめる。何を言い出すのかと思っていたが、まさか相原奈央の話をされるとは思ってもいなかった。そればかりか、相原に何をしたのか、なんて聞かれたって、何もしていないのだから答えようがない。そもそも、どうして小林がそんなことを訊ねてきたのかすら理解できず、首を傾げる。
「……えっと、どういう意味?」
すると小林は眉間に皺をよせ、今にも飛び掛かってきそうな勢いで一歩足を踏み出し、
「とぼけるな!」
「い、いや、とぼけるなって言われたって」
小林が何を言わんとしているのか、全然わからない。
「今朝からアイツの様子はおかしかった。昼には机に突っ伏して泣いていた。お前が相原を泣かせたんだろ!」
「な、泣いてた? 相原さんが、僕のせいで?」
なんで、どうして? 僕、なんか相原さんが傷つくようなことをしただろうか、言っただろうか。やっぱり昨日、偉そうなことを口にしたのがいけなかった? あれで相原さんは傷ついちゃったってこと? だから朝も声をかけた時、考え込むような仕草をしていて、逃げるように校舎に駆けていったってこと?
「――そんな」
信じられなかった。悪気なんて全くなかった。相原のことを思って言った言葉だった。けれど、相原はそんな答えは望んでなどいなかったということだろうか。それなら、なんて答えればよかったんだろうか。何を言えばよかったのだろうか。
わからない。何もかもが解らなかった。
「……やっぱり、お前が!」小林は歯を食いしばり、恨みを込めた眼差しで大樹の襟首を強く掴んだ。「いったいアイツに何をしたんだ! 言え!」
間近に小林の顔が迫り、大樹は狼狽えた。大きく身体を揺すられて、いったい自分が何に巻き込まれているのか理解が追い付かない。自分のせいで相原が泣いていたとして、どうして小林がここまで憤っているのかが解らなかった。鬼のような剣幕で唾を散らす小林のその様はあまりに異常で、ただクラスメイトや同じ図書委員だからという理由でこんなことをしている感じでは全くなかった。
これでは、まるで――
「ちょ、ちょっと待って! 離して……!」
「相原に何をしたのか言え!」
小林は眼を大きく見開き、押し倒さんばかりの力で大樹の身体を強く揺り動かした。こんな長い階段の上段で押し倒されてしまってはひとたまりもない。最悪、下まで転がり落ちて大けがをしてしまうことになるだろう。
「な、何もしてない! 何もしてないから!」
「嘘を吐くな! だったらどうして相原は泣いてたんだ!」
「し、知らない! 本当にわからないんだ……!」
「お前が何も考えてなかっただけだろうが!」
ぐっとさらに強く押されて、大樹はバランスを大きく崩した。襟首を掴んでいた小林の手がぱっと離されて、そのまま背中から転んでしまう。あまりの痛みに叫ぶことすらできず、「ぐぅっ!」と変なうめき声が口から漏れた。段のヘリで尻を強く打ち、数段、ゴロゴロと転がり落ちるのを、何とか手をついて態勢を立て直した。けれどその瞬間、ごきりと身体の中で鈍い音がしたような気がした。
「う、ううぅっ――ぐぅっ!」
ゆっくりと起き上がろうとした大樹の身体を、小林は容赦なく足で踏みつけてきた。大樹を見下ろしながら、今にも大樹を蹴飛ばして、このまま階段の下まで突き落とそうとしているようだ。たぶん、今の小林の様子なら、本気でやりかねない。
「なんで相原を泣かせた! アイツに何をしたのか、言え!」
「だ、だから、何もしてない――!」
「嘘だっ!」
小林は大樹の身体を押し付けていた足を高く上げて、勢いをつけて何度も何度も振り下ろしてくる。咄嗟に大樹は腕でその足から身体を守ったが、代わりに踏まれた腕からぐぎっと鈍い音がした。
「嘘を吐くなぁっ! 言えって言ってんだろうが!」
「ほ、本当に知らない……!」
「とぼけんな、クソ野郎がっ!」
小林は動けない大樹の身体を執拗に蹴り飛ばし、踏みつけ、わけのわからないことを喚き散らし続ける。
「お前に相原は渡さない! お前なんかに、お前なんかに、お前なんかに……!」
大樹はすでに小林の言葉をうまく聞き取ることができなかった。妙な耳鳴りに襲われながら、ただ必死に耐えることしかできない。助けを呼ぼうにも、うめき声ばかりで叫ぶことすらできなかった。それなのに、大樹の身体は至る所から悲鳴をあげていた。たぶん、この痛みは骨が折れている。腕が痛い。脚が痛い。脇腹が痛い。転んだ時に切ったのだろう、口の中にも鉄の味が広がっていた。
小林の形相やその言葉から、大樹は小林が相原のことを好いているのだと理解した。或いはもしかしたら、小林と相原は交際しているのではないかという可能性すら疑った。けれど、はたから見ていて、今までそんな雰囲気はまるでなかった。ふたりがまともに会話をしているところも見たことはなかったし、昨日相原と一緒に図書委員の仕事をした時も、相原は小林のことを大して気にするような素振りも見せなかった。もしかしたら、秘密裏に交際しているのかも知れない。そうとは知らずに大樹が相原に声をかけたものだから、嫉妬して勘違いして僕のことを…… だとしたら、僕はどうしたらいい? どうすれば誤解を解くことができる?
しかし大樹はそこまで考えて、違う、と思った。そうじゃない、そんなはずはない。
こんな奴が相原奈央と付き合っているはずがない。恋人同士のはずがない。もし交際しているのだとしても、こんな奴と相原が一緒にいるべきじゃないと確信した。だからと言って、今の自分に小林を説得するだけの自信はない。全身ボロボロで、まともに声すら出せそうにない。このままでは、怒り狂う小林に本当に階段下に突き落とされて、殺されてしまうかもしれないとまで大樹は危惧した。
なら、それなら――!
大樹は意を決し、全身の力を振り絞って、動く方の腕を小林の振り上げられた足首に伸ばした。ぐっとその足首を力いっぱい掴み、勢いに任せて手前に引っ張る。
「――う、うわああああぁああぁぁっ!」
小林が、悲鳴をあげながら大樹の上に覆い被さってきた。思ったよりも軽く、思ったよりも重いその身体に、大樹の身体がさらに悲鳴をあげた。それでも大樹はその痛みを必死に耐えながら、小林の身体をぐっと掴むと、自ら足元の階段を蹴り飛ばした。
瞬間、ふたりの身体は勢いよくゴロゴロと階段を転がり落ちていった。
想像以上の痛みだった。視界がグルグルと激しく回転して、耳元で小林の絶え間ない叫び声が聞こえていた。大樹はそんな小林の身体を離すまいと、必死にその身体にしがみついていた。頭や背中を何度も何度も打ち付けながら、大樹と小林の身体はその長い階段を転げ落ちて、やがて勢いよく黒いアスファルトの上に、ふたりの身体は投げ出された。
もはやうめき声を漏らすことすら苦しくてできなかった。
意識がまだあることが信じられず、数メートル先に転がる小林に視線だけを向ける。
小林も意識はあるらしく、痛い痛いとうめき声を漏らしていた。
「だ、大丈夫ですか!」
「きゅ、救急車を呼んで!」
すぐ近くを歩いていたのであろう、女性たちの声が聞こえてくる。
けれど、頭を動かしてその様子を窺うことすらできなかった。
胃の中がシェイクされて、気持ち悪くて吐きそうだった。
いや、あれだけ頭を打ったのだから、もしかしたら脳に何かあったのかも知れない。
次第に大樹の身体は痛みが増して、思考することすら難しくなってきた。
荒い息を繰り返しながら、大樹はそれでも相原奈央のことを思い浮かべる。
もしかしたら、このまま僕は死んじゃうんじゃないだろうか。
骨も折っているし、頭も強く打っているし、口の中は血だらけだし。
――あぁ、最後にもう一度、会いたかったなぁ。
大樹は灰色の空を見上げながら、すっと意識を手放した。