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「――っ!」
玲奈は大きく目を見開き、肺の中いっぱいに入り込んできた大量の空気に一瞬、呼吸の仕方を忘れるところだった。
何が起こったのか理解できないまま、眼を瞬かせていると、
「玲奈ッ! 大丈夫っ?」
桜が涙を浮かべながら、横たわる玲奈の身体を抱きしめてきた。
「え、あ、桜――? なに? どうしたの?」
わけもわからず、玲奈は上半身を起こすと桜の背中を優しくさする。
そんな桜の向こう側には、ほっと胸を撫でおろす結奈と、微笑みを湛えた麻奈の姿があった。
――いや、結奈と麻奈だけではない。
ふたりの背後、少し離れたところには、香澄――玲奈の祖母とタマモの姿もあって。
「おばあちゃんに、タマちゃんも……?」
玲奈はわずかな混乱に小首を傾げた。
「良かった、意識が戻って。突然ぶっ倒れるから何事かと思ったじゃん」
結奈は玲奈の腕に手を伸ばし、
「大丈夫? 立てる?」
「あ、うん」
桜に身体を支えられながら、玲奈は結奈に腕を引っ張ってもらってゆっくり立ち上がった。
少し足元がふらつくような気がするけれど、身体のどこにも異常はない。
膝に多少のかすり傷が見えるくらいだろうか。
「どうする?」と訊ねてきたのは麻奈だった。「そこに救急車が来てるけど、玲奈も診てもらう?」
麻奈は口元に微笑みを浮かべながら、玲奈の頬に手を伸ばした。
少しだけ冷たい、けれどとても暖かい、綺麗な姉の手。
「ううん。たぶん、大丈夫、どこにも怪我はしていないみたいだし」
「そう? なら、良かったけど……」
それから麻奈は玲奈の頭を軽く撫でながら、
「よく頑張ったわね、玲奈」
その言葉に、玲奈はハッと息を飲んだ。
……そうだ、思い出した。
自分は今、あちらの世界で、あのスーツの男と対峙したのだ。
自分の身体をあの男に弄られながら、その気持ち悪さと身の危険に、玲奈は結奈に教えてもらったあの拳で、あの男を――
玲奈は思わず、自分の右拳に視線を向けた。
そこにはいつもと同じ、なんてことのない自分の手があるだけだった。
この手であの男を退けただなんて、今となっては到底信じられなかった。
火事場の馬鹿力、なんて考えると、我ながら馬鹿らしくて笑えてくる。
「え、なに? なんで笑ってんの、玲奈」
桜が眉間に皺を寄せて訊ねてくるのを、けれど玲奈は「ううん」と首を横に振って、
「なんでもないよ、大丈夫」
「ほんとに? まぁ、玲奈が大丈夫ってんなら……」
そんな桜の足元には、くんくん鼻を鳴らすコトラの姿もあった。
玲奈は腰を屈め、コトラの頭を小さく撫でる。
「すみません、また、お力になれなくて」
申し訳なさそうにしゅんとなるコトラに、玲奈は「気にしないで」と声をかけてから、コトラの体を胸に抱いた。
そこへ、タマモが香澄と共に歩みよってくる。
香澄も眉をひそめながら、申し訳なさそうに首を垂れると、
「――ごめんなさい、玲奈。もう少し、あなたにあれらに立ち向かう方法を教えておくべきだったかもしれない」
「……おばあちゃん」
「けれど、もう大丈夫」言って香澄は小さくため息を吐き、口元に笑みを浮かべながら天を仰ぎ、「全て終わったみたいだから。彼があの子を、解放してくれたみたいだから」
「……彼? あの子?」
何のことを言っているのか、さっぱり玲奈には解らなかった。
相変わらず、おばあちゃんは説明がまるでない。
首を傾げる玲奈に、けれど香澄はそれ以上のことを教えてはくれなかった。
「でも、安心して。もう、気にしなくて大丈夫だから」
戸惑う玲奈に、香澄はくすりと笑んでから、
「行きましょう、タマちゃん」
タマモは眉間に皺を寄せて、
「今度はどこへ行く気だ?」
「そうねぇ」と香澄は口元に指をあててから、「ここじゃない、どこか?」
「なんだ、それは。意味が解らん」
タマモは言って、大きくため息を吐いただけだった。
それから香澄は玲奈に背を向けると、
「それじゃぁ、あとはよろしくね、結奈」
結奈もタマモと同様、眉間に皺を寄せながら、
「また、行っちゃうんだ」
「大丈夫、いずれまた会えるから」
「……そうだね」
「麻奈も元気でね。また、あちらで会いましょう」
けれど、麻奈は香澄の言葉に返答しなかった。
いや、そもそも麻奈には香澄の姿が視えていないのだ。
同じく香澄の姿が視えていない桜のように、玲奈と結奈を不思議そうに見つめている。
その代わりに、
「じゃあな、麻奈」
タマモが麻奈に声をかけて、麻奈は「え?」と首を傾げてから、
「帰っちゃうの?」
「あぁ」
「うん、わかった。またね、タマちゃん」
そうして香澄とタマモは玲奈たちに背を向けて、すたすたとどこへともなく歩み去ってしまったのだった。
それを見送ったところで、交通誘導をしていた警察官に立ち退きを要求される。
「とりあえず帰ろうか。汚れちゃったし、全身びしょびしょだし、着替えないと風邪ひきそう」
結奈の提案に、玲奈は「そうだね」と答えて自身の濡れそぼった姿を見下ろした。
びしょ濡れの生地が肌に張り付いて気持ち悪いどころではなく、そのせいで下着が浮かび上がってこのままではあまりにも恥ずかしい。結奈は全く気にしていないみたいでむしろ堂々としているけれど、玲奈は思わず胸元を腕で覆って、傍から見えないようになるべく隠す。
それを見て、桜はムフフッと笑みをこぼしながら、
「あたしはそのままの方が良いと思う」
そんな桜に、玲奈ははっきりと、
「絶対イヤ」