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放課後になっても激しく雨は降り続け、見上げれば灰色の重たい雲が空を覆い隠していた。空気も相変わらずじめりと湿っており、肌に貼り付くような制服の感覚が気持ち悪くて仕方がない。
玲奈は桜と共にしばらくの間脱靴場の出入口から雨空を眺めていたが、やがて大きく肩を落とすと、
「……帰ろっか」
と桜にそう話かけた。
桜は一瞬、後ろの脱靴場を振り返り、次いで次々に校門へ向かって歩いていく生徒たちの姿を眺めながら、
「いいの? 相原さんのこと」
「木村くんが代わりに見てくれるって言ってたじゃない。何かあったら連絡してくれるって」
「でもさぁ、木村だよ? あんな頼りない奴でホントに大丈夫なのかなぁ」
「それ、木村くんに失礼じゃない?」
「そう?」と桜は首を傾げ、小さくため息を吐いてから、「まぁ、アイツもあたしらとの付き合いで色々イヤぁな目に遭ってるから、対処方法くらいは解ってるとは思うけど……」
それでも桜は心配そうに、もう一度後ろを振り向いてから、再び玲奈に顔を向けて、
「……まぁ、今は確かに、あの変態男の方を優先したいよね」
「――うん」
玲奈は頷き、ゆっくりと足を一歩踏み出した。
桜と並んで校門を抜け、バスセンターに向かって鯉城沿いの歩道を進む。
ふたりは所々にできた大きな水たまりを避けるように歩きながら、街中のビル群に視線を向けつつ、
「それにしても、アイツが現れなかったってのは、ちょっと意外だったかも」
桜の言葉に、玲奈は「えっ」と桜を見やる。
「だってアイツ、玲奈のことをずっと付け狙ってるんだよね? 今朝だって、バスに乗ったあたしたちのことをニヤニヤしながら見つめてたし。それなのに、アイツは玲奈のあとをついては来なかった」
「ついて来なかった、のかなぁ?」
首を傾げる玲奈に、桜は、
「なにそれ、どういう意味?」
「なんて言えばいいんだろう」玲奈は口元に手をやりながら眉間に皴を寄せつつ、「もしかしたら、本当はあのヒトも、あの死霊たちの中に混じっていたのかも知れないから」
「あの死霊たちって、相原さんを襲ってたっていうやつらのこと?」
そう、と玲奈は頷き、
「あの時、教室の中――私や相原さんの周囲は水が腐ったような生臭いにおいに覆われていた。アレは間違いなく、あの死霊たちが現れたことによるものだった。そのにおいは色んなものがごちゃ混ぜになってるみたいな感じで、コトラもどれがどれの臭いかまでは嗅ぎ分けることができなかったみたいなの」
「ってことは、玲奈のことを襲わなかっただけで、あの場にあの変態男も居たかもしれないってこと?」
「…….うん」
もしそうだったのだとして、私を襲ってこなかった理由って、いったい何なんだろう。
偶然? たまたま? それとも、私よりも相原さんの方に興味が動いたのだろうか?
確かに相原さんは私よりもずっと美人だ。大人っぽくて、すらっとしてて、どこかしら大人の色気というものを感じなくもない。制服を着ているから如何にも大人びた高校生って感じではあるけれど、それなりの服装で街中を歩いていたら、もう立派な大人にしか見えない。
……或いはもしかしたら、木村くんもそんな相原さんに惹かれてしまったのではないだろうか。いつだったか、好みの異性について桜が木村くんに訊いたことがあって、そんなことを言っていたような、言っていなかったような?
そこで玲奈はふと我に返り、違う違う、と首を大きく横に振った。
今はそんなことを考えている場合じゃない。今重要なのは、あのスーツの男が今どこで何をしているかだ。
今もどこかで私のことを狙っているのか、それとも本当に、相原さんの方に興味が移って、あのたくさんの死霊の中に混じってしまったのか。
玲奈は今一度、あの死霊たちの中にスーツの男が混じっていなかったか、コトラに再確認しようと肩から下げた通学鞄に眼を向けたところで、
「――あれ? コトラ?」
コトラの姿がそこにないことに気がついた。
「ん? なになに?」桜も玲奈の通学鞄を覗き込みながら、「なにさアイツ、また居なくなっちゃってるじゃん。玲奈のこと護るって言っておきながら、またどこへ行っちゃったのやら」
ふたりが立ち止まり、後ろを振り向いたところで、
「す、すみません……! ちょっとおしっこに行ってました……」
コトラは雨でずぶ濡れになりながら玲奈たちのところまで駆けてくると、プルプルと身体を震わせて水しぶきを辺りに散らした。
「うわ! こら! コトラ!」
その水しぶきに制服が濡れてしまった桜が慌てたように後ずさり、
「あっ! ごめんなさい!」
コトラもしまったとばかりに頭を下げて、ぽんっといつものキーホルダーの姿に変化すると、玲奈の通学鞄にぶら下がり、
「以後、気を付けます……」
そんなコトラに、玲奈は小さくため息を吐いて、
「もう。行くなら先に言ってくれないと、心配するでしょ?」
「……すみません」
コトラは再び、小さく謝った。
玲奈は肩を落として、
「……ねぇ、コトラ、もう一度確認なんだけど」
「はい」
「一時限目に現れた死霊たちの中に、あのスーツの人の気配や臭いは、確かに感じなかったの?」
「……感じなかった、というより、判らなかった、ですね。あの時もお答えしましたけど、あまりにも死霊たちの数が多すぎて、臭いを嗅ぎ分けることがまったくできなかったんです」
「少しも?」
「……はい。すみません」
しょぼんと垂れたその耳が、なんだかとても可哀そうで、玲奈はこれ以上は訊ねない方が良いだろうと、桜と再び歩き出した。
その時だった。
――ぴちょんっ
あの音が、すぐそばで聞こえたような気がしたのだ。
玲奈は慌てて立ち止まり、辺りを見回す。
「なに? なにか感じたの?」
桜も足を止め、玲奈に険しい顔を向けた。
コトラも大きく耳を立てて、すんすん鼻を鳴らしながら、
「……います。すぐ近くです。お城のお堀の方――水の中に紛れて――こちらをじっと見ています」
玲奈はじっと鯉城の方に視線を向け、身体中の全神経を研ぎ澄ませた。
コトラの視線の先。歩道からそう離れていない、水堀に揺れる、汚れたその水の中。
そこに玲奈は、あのスーツの男の姿を見た。
男は下半身を水の中につけており、玲奈を見てニヤリと不適に笑みを浮かべると、ちゃぷんと水の中に姿を隠して、そのまま静かに消えていった。
玲奈たちはしばらくお堀の水面を見つめていたが、
「……玲奈」
心配して声をかけてくれる桜に、玲奈は震える手で桜の手を握りしめながら、
「……行こう、桜」
「でも」
「大丈夫。大丈夫だから……」
玲奈は自分に言い聞かせるようにそう口にして、桜の手を引き、歩き出した。