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第3話

   3


 HRまでの時間をいつものように桜とお喋りに充てていると、どこかぼんやりとした様子の相原が教室に入ってきた。玲奈はその様子が少しばかり気になったが、けれど昨日、風邪をひいて休んでいたことを思うと、恐らくまだ調子が戻っているわけではないのだろう。先日図書館で話したことも気になっていたので、それとなく話をしてみようかとも思ったのだけれど、今は辞めておいた方がよさそうだと玲奈は思った。


 やがてチャイムが鳴り、HRを経て一時限目の授業が始まった。数学の志田原が何か不思議な呪文のような公式を黒板に書き写しながら、眠たくなるような声であれやこれやを説明している。数学に対して苦手意識のある玲奈は、何とかかんとかその呪文を理解しようと全神経を黒板と志田原の説明に注いでいたが、けれどその全てを理解するには至らなかった。


 というより、あまりにも眠くて仕方がなかった。


 毎度毎度思うのだが、数学の志田原の声はただそれだけで玲奈の眠気を誘う。そればかりか、理解の追いつかない公式や計算式の説明を聞くだけで、その眠気はより一層増していくばかりだった。これはもう、志田原先生の無駄に低い声が悪いんだと玲奈は思う。きっとあの声そのものに催眠効果があるに違いない。これは玲奈一人の感想なんかではなくて、他の生徒たちもまた、度々話題に上げる話でもあった。


 何とか必死に意識を保とうと試みながらノートに板書を書き写し、要所にマーカーで線を引いていっているのだけれど、気を抜くとノートには謎のグルグルした線が書き込まれていた。或いは無意識的に見たこともない新しい文字を書き込んでいて、玲奈は何度も何度も消しゴムで字を消しては書き直すという行為を繰り返す。


 その間も、玲奈はこくりこくりと舟を漕ぎ始めて――




 ぴちょんっ




 その音が聞こえた瞬間、一気に眠気が吹き飛んだ。


 シャーペンを持つ手を止め、思わず耳を澄ませて動きを止める玲奈。





 ぴちょんっ、ぴちょんっ、ぴちょんっ……




 その音は次第にこちらに向かって近づいてくる。


 教室の中を見回してみたけれど、誰もその音に気付いたような様子はなかった。


 ふと通学鞄にぶら下がる狐型のキーホルダー――コトラに視線を向けてみれば、コトラにはあの音が聞こえているのだろう、毛をぶわりと逆立てながら鼻をすんすん引くつかせて、大きく目を見開いていた。


 ……間違いない。死者だ。死霊たちだ。アイツらが、こちらに近づいている気配だ。




 ――ぴちょんっ




 すぐ近くから、水の滴る音がする。


 何かが腐ったような、酷い臭いが鼻を突く。


 すぐ近くに、アイツがいる。


 いや、アイツとは限らない。


 アイツだけとは、限らない。


 この気配は、明らかに一体だけではない。


 玲奈は身体を硬直させ、来たる死霊たちに感覚を研ぎ澄ませた。




 ――ぴっちょん、ぴちょんっ、ぴっちょんっ




 その音は、一方からではなかった。


 まるで四方を囲まれるかのように、玲奈のあらゆる方向から聞こえてくる。


 そればかりか。


「――っ!」


 教室の中に、複数の黒い影が、壁や教室の扉をすり抜けて侵入してきたのである。


 影はやがて形を成して、玲奈の方へと一歩、また一歩、水が滴る音と共に、近づいてくる。


 コトラは歯をむき出し、小さく唸り声をあげていた。


 あまりの死霊の数に、玲奈は本当にコトラだけで対処できるのか、心配で仕方がなかった。


 どうして、こんなにたくさんの死霊たちが、私のところに。


 けれど、その死霊たちの中には、あのスーツ姿の男はどこにも見当たらなくて。


 アイツは――アイツは、どこ?


 玲奈は身体を硬直させたまま、視線と意識だけであのスーツの男の気配を探った。


 だけど、わからない。


 臭いのキツさと気配の多さで、もともと鈍い感覚では感じ取ることが叶わなかった。


 どうしよう、どうしよう、コトラ――!


 その時だった。


「うっ……んんっ……!」


 玲奈のすぐ後ろから、呻くような声が聞こえたのだ。


 えっ、と玲奈は小さく後ろを振り向く。


 そこには、相原の身体に後ろから覆い被さるようにして立つ、ひとりの男の姿だった。


 髪は明るめのブラウンで身体が細く、そのくせ腕だけは妙に太くて逞しかった。彼はその手を相原の着るシャツの中に侵入させて、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、彼女の胸を激しく揉みしだいていたのである。


 それだけではなかった。


 彼女の周囲は複数の黒い影や死霊たちで埋め尽くされており、視線を彼女の足元に向ければ、蛇のような何かが彼女の足に絡みつき、上へ上へと這い上がっていたのだ。


 なんで、なんで相原さんを……? こいつらは、いったいなんなわけ……?


 でも、違う。今はそんなこと、考えている場合じゃない。


 玲奈は再び前を向くと、改めてコトラに視線を向ける。


「――コトラ」

 小さく呟き、コトラもそれに応えるように、

「はい」


 コトラは小さく息を吸うような素振りを見せると、次の瞬間。




『――ファオン!』




 コトラが大きく吠えた途端、ぶわりっとそれらの気配が遠くへ吹き飛ばされて行くのが玲奈には背中で感じられた。


 どこまで吹き飛ばされていったのかは判らないけれど、たぶん、しばらく戻ってこられないはずだ。


 だけど――と玲奈は顔を上げ、黒板の前で眉間に皴を寄せて立つ志田原の姿を見つめた。


 周りのクラスメイト達もまた、突然の吠え声に驚いた表情を浮かべていた。


 桜も眼をまん丸くして、玲奈の方へ顔を向けている。


「おい、誰だ! 犬の鳴き真似なんかしたのは!」


 志田原が教壇の前で皆の顔を見渡すように大きく叫んだ。


 その言葉に、玲奈は思わず身体を固くする。


 もちろん、「私です」なんてことを玲奈は言わない。


 コトラもまた、何事もなかったかのように、鞄でプラプラ揺れているだけだ。


 クラスメイト達は互いに互いの顔を見合わせ、しかし当然のように、誰一人名乗りあげる者はいなかった。皆一様に首を傾げ、どこから聞こえてきたのだろう、とひそひそと会話している。


「――ったく」憤る志田原は悪態を吐き、「真面目に授業受けろよ、いいな!」

 そう言って黒板に向かい、授業を再開するのだった。


 その様子に、玲奈はほっと胸を撫で下ろして、コトラの頭を軽く撫でた。

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