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第1話

   1


 翌朝。玲奈はパチリと目を覚まし、天井を見上げた。それから横に顔を向け、枕元のコトラに視線をやった。


 コトラはすでに目を覚ましており、玲奈が目を覚ましたことに気が付くと、

「おはようございます、玲奈さん」


「おはよう、コトラ」それから玲奈は辺りを見回して、「アイツは――まだいる?」


 コトラは鼻をひくつかせてから、

「――います。けれど、昨日から動いていません。たぶん、僕や結奈さんを警戒しているのではないかと」


「そう……」


 玲奈は呟くように答え、もう一度辺りを見回した。全神経を集中させて、自分にもあの男の気配が判らないか試してみる。けれど、どんなに集中しても、玲奈にはあの男の気配を捉えることはできなかった。しかし、このマンションの中のどこか――それは或いは、彼が生前住んでいた部屋――に潜んでいるのは間違いない。


 私が学校へ向かえば、恐らく、アイツも私を追ってくるのだろう。


 このままずっと、というわけにはいかない。いつまでもアイツに付け回されるのなんて御免被る。何とかして、アイツを祓わなければならない。逝くべき場所へ送らなければならない。


 でも、どうすれば良い? どうすればあの男を祓うことができる?


 玲奈は考えながら朝食を摂り、身支度し、家を出た。


 マンションのエントランスを抜けてしばらく歩いたところで、コトラに確認する。


「――きてる?」


 コトラは鼻をひくひくさせてから、

「……はい。姿は見えませんが、後ろに」


 玲奈は深いため息を吐き、背後を振り向いた。


 通勤通学でひっきりなしに人の行き交う歩道の先をじっと見つめてみたが、コトラの言う通り、どこにもあの男の姿は見当たらない。どこに潜んでいるのか判らないけれど、あの男がしつこく自分を付け回しているのだと思うだけで気持ちが悪かった。と言って、たぶん、ここで人混みに紛れたり、走って逃げようとしても当然、無駄だろう。どのみち玲奈が向かう場所が学校であることにかわりはないのだ。それに、例え今日一日学校をサボって逃げ回ったところで、行く当てがあるわけでもない。結局は家に帰らなければならない。なら、大人しくこのまま警戒しつつ、学校へ向かうべきだろう。


 玲奈は大きくため息を吐き、駅へと向かった。


 駅前のバス停に着き、長い列に並んだところで、

「玲奈」

 すぐ後ろから、桜の声が聞こえた。


 振り向けば、桜が手を振りながらこちらに駆けてくるところだった。


「――昨夜はどうだった?」


「一応、大丈夫」


「そか」

 それから桜はきょろきょろと辺りを見回し、

「……アイツ、いるの?」


 玲奈はその質問に、無言で頷く。


 桜も玲奈に頷き返し、そっと手を繋いできた。


 玲奈の左手を、桜はぎゅっと右手で握り締めながら、

「――大丈夫だから。私も、玲奈を守ってみせるから」

 真剣な眼差しで、そう言った。


 程なくして、たくさんの人が詰め込まれたバスがやってきた。


 玲奈と桜はそのバスに乗り込み、立ったまま窓の外に眼をやって。


「あっ」


 窓の外――それまで玲奈たちが立っていた場所に、スーツ姿のあの男が立っていたのだ。


 じっと玲奈たちを睨みつけるような視線で、けれど口元にはにんまりと笑みを浮かべている。その姿は当然のように、道行く人々や列をなして次のバスを待つ人々の眼には見えていないらしく、どうかすればその身体をすり抜けるようにして、たくさんの人々が往来していた。


「……いるね」


 桜の呟くその声に、玲奈は眼を見開いて男を見つめたまま、

「――視える?」


「視える。こっちをじっと見つめてきてる」


 こうして玲奈と手を繋いでいるときだけ、桜にも霊というものが視えることがあった。必ずというわけではないようなのだけれど、結奈曰く、玲奈がアンテナとなって桜の眼に霊を映し出しているんじゃないか、という、あくまで予想だ。実際のところ、どうなのかはわからない。確証など何処にもない。ただ、玲奈と手を繋いでいるときだけ、稀に霊の姿が視えるということは確実だった。


「アイツ、乗り込んではこないんだね」


 桜のその言葉に、コトラがそっと呟くように、

「――たぶん、その必要がないんです」


「と、いうと?」


「アイツらは、水を介して移動することができるので」


「……水」


 はい、とコトラは口にして、

「水は、必ず何処かで繋がっているんです」


 ……そう。玲奈は、よくアレらが現れる前触れを耳にしている。




 ――ぴちょんっ




 水の滴るその音で、霊と呼ばれるアレらが近づいていることを知らされる。


 知りたくもない音。


 思わず身構えてしまうその音。


 玲奈は、窓の外で嘲笑う男を見つめながら、耳元でその音が聞こえたような錯覚さえした。


 ゆっくりとバスが動き出し、まるで玲奈たちを見送るように、男はじっと、その姿が見えなくなるまで、玲奈たちから視線をそらすことはまったくなかった。

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