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第6話

   3


 響紀は結奈を一階の待合所に残し、再び母親の病室を訪れていた。


 病院の中はすでに多くの患者にあふれ、医者や看護師、事務員と思しき制服を着た女性がひっきりなしに行き来していた。響紀も体調を崩した際には何度かこの大きな病院を訪れているが、こうして死んでなお訪れていることに何となく違和感を覚えた。相変わらず廊下の至る所にぼうっとした影が突っ立っていたが、誰かに害を為そうとは一切せず、やはりそこに居るだけだった。


 響紀はそっと病室の中に足を踏み入れると、恐る恐る歩みを進める。同室の他の患者はベッドに横になっているか力なく腰かけ、イヤホンを耳にしてテレビを観たり本を読んだり、或いは暇を持て余してただ眠っているだけの者もいた。


 響紀の母親も彼女らと同じく、テレビをつけっぱなしにしたまま、すうすうと寝息を立てながら居眠りしている。


 誰かが見舞いに来たのか、見知らぬ荷物が片隅に寄せておいてあった。


 父親だろうか。それとも、奈央がここに来ているのか。


 響紀は小さく溜息を吐き、母親の傍らに再び立った。


「結局、また来ちゃったよ、母さん」

 言って響紀は、母親の額に手をやった。


 温かい感触が響紀の手に伝わり、どこか心がほっとする。


 陽光に照らされた母親の顔は血色もよく、どこにも異常は見当たらなかった。相変わらず枕元には小さなお守りがかけられていて、そこに不思議な力を感じる。どうやらちゃんと母親のことを守ってくれているらしい。


「まぁ、なんだ」

 響紀は何となく気恥ずかしさを感じながら、母親の頬へと手を動かして、

「――行って来ます、母さん」


 言い終えたとき、母親が「ううん」と小さく呻いた。


 響紀は咄嗟に頬から手を放して一歩後ろにあと退ったが、

「……行って来っしゃい」

 母親の小さなその言葉に、思わず目に涙を浮かべてしまう。


 眠ったまま、それでもそう口にしてくれた母親の優しさに、響紀はぐっと拳を握り締めた。その思いに答えなければならない。何としてでも、無事に戻って来なければならない。そして言うのだ。ただいま、と。


 響紀はもう一度母親のそばに寄り添い、その手を軽く握る。


 その時だった。


 ベッドを囲むカーテンが捲られる音がして、

「……あっ」

 その声に、響紀は思わず顔を向けた。


 そこには私服姿の奈央が立っていて、大きく目を見張り、響紀の方をじっと見つめて口を小さく開けていたのだ。


 響紀も同じく、奈央のことを見つめ返す。


 一瞬、ふたりの視線が交わったような気がして、響紀の心はどきりとした。


 ……いや、そんなはずはない。俺の姿は生者には見えない、目が合ったような気がしただけだ。馬鹿馬鹿しい。


 思い、響紀は母親から手を離すと、すっと肩の力を抜き、ゆっくりと瞼を閉じる。


 それからもう一度奈央の方に視線を向ければ、やはり奈央には自分の姿など見えていないらしく、二度と視線が交わることはなかった。


「母さんのこと、よろしくな」


 響紀は小さく独り言ちて、奈央の脇を抜けるようにして病室をあとにする。どこか後ろ髪を引かれるような思いだったが、けれど響紀は引き返さなかった。


 そう、俺はもう一度戻ってくるのだ、すべてが終わった、そのあとに。


 階下に降りると、人でごった返す待合所では結奈が雑誌を読みながら長椅子に脚を組んで座っており、

「……ちゃんと、行って来ますって、言ってきた?」

 響紀の存在に気づくと顔を上げ、そう訊ねてきた。


「あぁ」

 響紀は小さく頷き、結奈を見つめて、

「行こう」


「うん」


 結奈も深く頷いて、雑誌をラックに戻したところで、

「――っ!」

 響紀は思わず、ぞくりと背後に視線を感じた。


 その視線はまるで響紀を射貫くかのように強く、響紀はばっと背後を振り向く。


 そこは病院の玄関ホールになっており、多くの人々が出入りする中、その扉の向こう側にひとりの男が立っており、じっとこちらを睨みつけていたのである。


 響紀はその男の顔に、どこか見覚えがあった。


 男はにやりと気味の悪い笑みを浮かべ、肩を揺らすようにして響紀に嘲笑を発している。男との距離は十数メートル。それなのに、男の嗤う声は確かに耳元で聞こえるようで。


 誰だ、アイツは。どこで会った? アイツは何者だった? 思い出せ、思い出すんだ! そんなに昔じゃない。ここ数年の話だ。仕事関係じゃない。俺の仕事の取引先に、あんなにひょろい男なんていなかった。


 髪は明るめのブラウン、顔はそれなりに均整が取れているが、不気味な笑みがそれを台無しにしている。細身のくせに半袖シャツから覗くその腕は妙に太く逞しかった。その佇まいは余りにも不審者で、まるでストーカーか何かのような――


 その瞬間、響紀の頭に、昨年の出来事が思い浮かんだ。


「まさか」


 響紀は目を見張り、その男をまじまじ見つめる。


 奈央を付け回し、うちにまでやってきたあの不審な若い男。奈央の自転車のサドルに自らの精液を擦り付けたばかりか、夜間に我が家に押し入ろうとした、あの男が、今まさに目の前にいるのだ。


 いや、しかし、アイツがこんなところに居るはずがない。


 何故ならアイツは、留置所の中で――死んだはずだ。


「なに? どうかしたの?」


 結奈に不思議そうに訊ねられたが、けれど響紀は答えなかった。


 あの奈央を付け回していた男が、口元に笑みを浮かべたままこちらに背を向け、走り去っていこうとしていたからだ。


「クソがっ!」


 響紀は小さく叫び、ダッと駆け出す。


 その後ろで、

「え? なに? 何があったのよ!」

 慌てたように、結奈も響紀のあとを追ったのだった。

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