峠を下り、古い小さな寺へと続く細い階段の前を通り抜ける。その脇には小さな祠が建っており、一体のお地蔵さまがその細い目で響紀をじっと見つめていた。
空はすっかり黒に染まり、厚い雲に覆われて月も星もその輝きを一切遮られていた。
雨は静かにしとしとと降り続き、響紀の衣服をぐっしょり濡らした。
もちろん、本当に濡れているわけではない。響紀がそう思うからこそ、濡れているように感じられているだけだ。それでも響紀の身体は、まるでその水気を吸って膨張してしまったかのように重かった。歩くたびに、びちゃり、びちゃりと足元で大きく水が跳ねる。地を踏みしめる感覚もなく、どろどろと這いまわるスライムになってしまったような気分だった。
響紀は結奈がどこへ行ってしまったのか、ずっとそればかり考えていた。まさかあの勢いに任せて、本当に喪服の女のところへ突っ込んでいったとは考えられなかった。何だかんだでアイツは冷静に物事を考えて行動に及んでいたはずだ。本当にあの女と対峙するつもりであれば、それなりの準備くらいするだろう。これは響紀の希望的観測でしかなかったが、しかし何度か結奈と話してみて至った結論でもあった。
俺の時みたいに死者をひと蹴りで吹っ飛ばしたり、箒を軽く一振りしただけで神社の敷地の外へと掃き出したりすることができるくらいだ。それなりの力はやはりあるのだろう。だとしても、結奈の祖母である香澄にすら祓えなかったあの喪服の女を、結奈はいったい、どうやって止めるつもりなのだろうか。
こういう場合、テレビや漫画なんかではどうやっていた? どんな方法があった? 少なくとも、響紀の記憶の中では巫女が何か呪文を唱えたり、札を使ったりして悪霊と戦う場面しか思い浮かばず、まさかそんなベタな方法なんて有りはしないだろう、と首を横に振った。
遥か遠い昔の記憶。まだ響紀が小学生の低学年だったころだっただろうか。週一で放映されていたドラマがあって、その中で一人の中学生だか高校生だかの女の子が、毎週巫女服を身にまとい、悪霊と戦っていたのを欠かさず観ていたような気がする。
当時、小学校でもそのドラマが結構人気で、男女を問わず話題に上がることもあったはずだ。そこから学校の怪談話を扱った本が爆発的に人気になって、トイレの花子さんだとか太郎くんだとか、口裂け女や人面犬といった定番のキャラクターたちが登場する映画もやるようになって。
何とも懐かしい記憶だ。でもまさか、自分自身がそんな世界に足を踏み入れることになるだなんて、当時は全く以て思わなかった。あんなものは作り話だと思っていたし、幽霊も妖怪も、戦う巫女も霊能力者も、テレビの向こうの想像の世界のものだとばかり思っていたのだから。
響紀は峠を下りきると、すぐそばのコンビニに目を向けた。そこには数台の車が停まっており、店の中を覗き込めば一組のカップルと中年の男が一人、そして学生と思しき若い男の姿が一人あって、レジにはかなりの高齢であろう店員がぼんやりと彼らの買い物する様子を窺っていた。その誰もが響紀の存在には気付いておらず、カップルに至っては会計を済ませたあと、店を出る際に響紀の身体をすり抜けるようにして去っていった。
今日この時までに何度も経験したことではあったが、そのたびに響紀は自分がすでに存在しない者であることを自覚せずにはいられなかった。
深いため息を一つ吐き、けれど今はそんなことを気にしているワケにもいかなかった。
響紀はコンビニをあとにすると、結奈と出会った駅裏の神社の方へと足を向けた。とにかく、思い当たる場所をあたってみる他に方法など思い浮かばなかったのだ。
こんなことならどこに住んでいるのかくらい聞いておけばよかった。そう響紀は思ったが、しかし実際そんなことを訊ねたところで、結奈が正直に教えてくれていただなんて到底思えない。結局のところ、自らの足を使って探し当てるしかないのだった。
何度も行き来した道を歩きながら、響紀は辺りをきょろきょろ見回す。どこかに結奈の姿は見えないか。其処彼処の陰に異形が潜んでいはしないか。そんなことを考えながら。
やがて小学校の角を曲がり、明るいコインランドリーの前を通過して、賑やかな居酒屋や昔ながらのスナック、大きなビルの一階に入るコンビニ、店じまいを始めた弁当屋――かつてそこは響紀がよく利用していた――を横目に、母親が入院している病院へと道を抜ける。
響紀は思わず母親の病室を見上げていたが、すでに消灯時間を迎えているのか、暗くて何も見えなかった。
周囲は静寂に包まれ、表の通りを行き交う車の走行音以外はどんな音も聞こえなかった。時折すれ違う人々も家路を急いでいるのか、足早に道を歩いている。そんな人たちの中にも或いは自分のように死者が混じっているのだろうか。そう響紀は思ったけれど、喪服の女やかつての友人、下半身しかない少女や頭の潰れた老人の霊を見た響紀にとって、それを確かめるのは憚られた。
やがて病院の裏手へ回り、白い狐――タマに誘導されて向かった、結奈が巫女として働いている件の神社を目の前にして立ち尽くし、固唾を飲んだ。
石鳥居を挟んだ参道の向こう、長い石段の上に佇む拝殿。薄暗い街灯に照らし出されたその姿はやはりどこか畏怖を感じさせ、今も自分の不敬な態度にこの神は怒っているのではないかと響紀は恐れた。けれど今朝のような威圧感はまるで感じられず、響紀は遠慮がちに境内へと足を踏み入れた。一歩足を踏み出してしまえば、あとは前へ前へ進むだけだった。
――大丈夫、何もない。
響紀は安堵し、その長い石段を踏みしめるように拝殿の方へと進んでいった。
やがて石段を登り切った時、響紀はじっと睨みつけてくる一対の狛犬と視線が交わったような気がした。
今の俺は受け入れられている。いや、むしろ俺が来るのを待っていた……?
どうしてそんなことを思ったのか、響紀には全く解らなかった。とにかくその場の空気が、響紀を全面的に受け入れるように、彼の周囲を包み込んでいたのである。
響紀は拝殿に向かって深く深く首を垂れた。
犯した不敬を詫び、これから自分がやろうとしていることに加護を求めた。
家族を守れるように、ユキの魂を救えるように。
しばらくそうしていると、響紀はどこからか、ぱしゃり、ぱしゃり、と音が聞こえていることに気が付いた。
いったい、どこからだろうか。
響紀は頭を上げ、耳を澄ませる。どうやらその音は拝殿の裏側の方から聞こえてきているらしかった。
響紀は敷地内に点在する薄暗い街灯の灯りを頼りに拝殿を回り込み、その裏手、音のする方へと恐る恐る歩みを進めた。
こんな夜に、いったい何の音だろうか。思いながら身構え、右腕のブレスレットに左手を添える。まさか、こんな所にもあの女の手が回っているのか。いや、まさかそんなはずはない。このブレスレットが効くくらいだ。何か神聖な力というものは間違いなく存在するのだろう。だとすれば、奴らはこんなところに来られないはずだ。それなら、この音の正体は、いったい。
拝殿の裏手にはそこまでに設置されていた街灯が一つもなく、うすぼんやりとした闇が広がっているだけだった。
確か、この先には社務所があったはずだ。そしてその手前には御神水の井戸があって――そこで響紀はどきりとした。
井戸……
それはごそごそと井戸に木桶を突っ込むと、器用に水をくみ上げ、おもむろに頭からその水をかぶり、何かひとり言を呟いている。
「だ、誰だ! そこにいるのは!」
響紀は思わず叫んでいた。
己の言葉がその人影に届くかどうかは解らなかったが、その不安から声をかけずにはいられなかったのだ。
人影は一瞬びくりと身体を揺らすと、ゆっくりと響紀の方に顔を向けた。
その顔に、響紀はほっと安堵する。
あぁ、やっぱり、ここに居てくれたか、と。
「……響紀?」
そこには頭から水をかぶりびしょ濡れになった、素っ裸の結奈の姿があった。