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第15話


   ***


 雨が降っていた。


 雨粒の音は響紀の耳元で弾けて散り、彼を取り囲むように広がっていた水たまりと同化して消えていった。その音が次から次へと際限なく続き、まるで永遠の時をそこで過ごしていたかのように、響紀の中へと染み込んでいく。


 彼は仰向けに倒れたまま、視線の先に見える緑をぼんやりと見つめていた。重たげな葉っぱからぼたりと雫が落ち、響紀の体をすり抜けて地面に強く叩きつけられる。けれどその感覚は一切なく、響紀は自分という存在が地面と交じり合い、もうここからは動くことができないのではないかという錯覚に陥った。


 とにかく体が重くて仕方がなかった。思考も鈍り、なぜ自分がこんなところで仰向けに倒れているのかということすら、しばらくの間思い出すことができなかった。


 そうしているうち、やがて彼の意識はようやくはっきりとモノを考えられるにまで落ち着いてきた。結奈と言い合いになり、蹴り飛ばされ、ご神木と思しきこの太い幹に叩きつけられて、そして「さっさと消えな、デキソコナイ」という一言とともに、結奈の足に踏み潰されて……?


 響紀はそこでふと辺りに視線を向けた。仰向けになったまま、まるで体全体が目玉になったような気さえした。けれど、どこにも結奈の姿は見当たらなかった。ただ去っていったのであろう足跡だけが、ぼんやりとまだ地面に残されているばかりだった。


 響紀はため息を吐いた。そして今しがた見ていた夢――或いは幻――について、突き刺さるような痛みを胸に覚えた。喪服の女が、少女が歩んできた道。そして彼女を誑かしたのであろう、何者か。


 アイツはいったい、何だったのか。あの少女を井戸に引きずり込んで、いったい彼女に何をしたのか。いや、そんなことはどうでもいい。少なくとも、あの何者かによって喪服の女は化け物と化してしまったことに変わりはないのだから。


 助けてやりたかった。あの少女を、響紀は救ってやりたかった。だが彼の言葉も、思いも、手も、あの少女には当然のように届かなかった。全ては過去の出来事だった。彼女の運命を変えることなど、今の響紀にできるはずもなかったのだ。


 響紀は上体を起こし、肩を落とした。これからどうすればいいのか、何をすればいいのか、本当に解らなくなっていた。このまま消え去りたかった。結奈の言葉通り、消し去ってほしかった。けれど、響紀は消えなかった。消えずにまだ、ここにいた。消せなかったのか、それとも、消さなかったのか。


 響紀は大きくため息を吐き、頭を抱えた。


 今一度思考を整理し、自分という存在の立ち位置を見極める。


 ――いや、見極めるまでもなかった。そして自棄を起こした自分を恥じた。もう少し自分は強い人間だと思っていた。決して折れることなく、自分の意思は嘘偽りのない硬いものだと信じていた。頑固頑固と言われて生きてきたほどに、自分という存在は、思考は、間違いのないものだと思っていた。それが今はどうだ。死を得たことによって乱れ、振り回され、生きていた頃のような強さを、俺はいつの間にか失っていたようだ。響紀は一つ頷くと、ぐっとこぶしを握り締めた。


 自分を強く持て、俺。こんなところで迷うな。自棄を起こすな。俺は俺だ。相原響紀だ。それは死んだって変わらない事実なんだ。


 その時だった。獣が歩く小さな足音がして、響紀は思わず音のする方――小さな社に顔を向けた。


 そこには、見覚えのある白い狐が佇んでいて。


「こんなところで何をしている」

 責めるように、その狐は響紀を睨んだ。


 響紀はその言葉に、余裕の笑みを浮かべながら、

「悪いな。ちょっと疲れて眠っていたんだ」


「……眼は醒めたか?」


「あぁ。醒めた」


「そうか」


「……結奈は?」


「お前を見捨てて、一人で行ってしまったようだ。あの娘は、中途半端が一番嫌いだからな。お前などいなくても、一人であの女を止めてみせると息巻いていたよ」

 それから遠くを見るように、ため息を吐く。

「まぁ、無理だろうがな。分が悪すぎる。あの喪服の女の後ろには、奴がいる」


「――奴?」


 そういえば、こいつは今朝方も似たようなことを言っていたはずだ。確か、あの女の背後にいる存在に阻まれているとか何とか……


 考える響紀に、白狐は短く言い放つ。


「神だ」


「……神?」


「あの世を支配するもの。この世を恨むもの。世界の滅びを望むもの。どう呼んでも構わない。あの神は、この世界の全てを憎んでいる。だから、あの喪服の女を利用して悪意ある魂を集めさせている」


 響紀は思わず眉間にしわを寄せる。

「それ、本当なのか? 何のために?」


「言っているだろう。この世界を滅ぼすためだ」


「……なんだよ、それ。本気で言ってんのか? 漫画やアニメじゃあるまいし」


「事実だ」


「なんでお前がそれを知って――」

 と、そこで響紀は不意に結奈の言葉を思い出した。


 そうだ、最初に会ったとき、結奈はこの狐のことを指して言っていたじゃないか。


 神の使いなんかじゃない。この狐は。


「神そのもの」


 じっと響紀が狐を睨むと、狐は軽くかぶりを振って、

「……確かに私は神の位を持っている。しかし、神そのものではない。そのあたり、結奈とは見解の相違があるようだ。若気の至りで、伏見まで神位を頂きに行っただけのこと。私自身は、所詮一匹の妖狐にしか過ぎん」


「――タマちゃん、なんて神様も妖怪も俺は知らんぞ」


「その名は香澄たちがわたしを呼ぶときに付けたあだ名だ」


「なら、本当の名前は?」


「おさん狐。またの名を、髙寅」


「おさん狐? お前が?」


 おさん狐なら知っている。響紀は小学生の頃、社会科の授業で市内にあるその小さな神社を訪れたことがあった。本当に小さな祠に祀られた、けれど伏見稲荷と並んで『正一位 髙寅稲荷大明神』と書かれた札がかかっていたことをぼんやりと覚えている。


 地元の妖怪話だ。おさん狐。美女に化けて男を誑かしたり、大名に化けて道行く人を驚かせたり、かと思えば五百匹の子分を引き連れ、京都の伏見稲荷まで神位を貰いに行ったりしたとか。そんな話を地元の爺さん婆さんから聞いたような気がする。


「まさか、本当に?」


「信じる信じないはお前次第だ。わたしには関係ない。わたしはわたしだ。それ以上でも、それ以下でもない」


「……そうだな」

 と響紀は小さく頷いた。


 この狐が何者か、なんてことは今のところどうでもいい話だ。神様? 妖怪? なかなか面白い話じゃないか。そもそも、俺だって生きていない。死者だ。幽霊だ。神社で俺を威迫してきたのも神だったし、こいつが神だという話も信じてやってもいいが、今はそんなこと関係ない。


 思っていると、タマはじっと響紀を見つめながら、

「そんなことより、今は大事なことがあるだろう」


「あぁ、解っている」

 それから響紀はゆっくりと立ち上がり、タマと向かい合う。

「で? そんな神様が俺に何の用だ? お前も結奈みたいに、俺を叱りに来たのか?」


「違う」

 とタマは首を横に振り、

「お前の家に住まう娘がいただろう」


「奈央か? 奈央がどうした?」


「今、あの娘が男を連れてお前の家に向かっている」


「はぁっ?」

 それは驚きの事実だった。あの奈央が、男を連れて俺の家に? どういうことだ?

「男って、お前。まさか、もうすでに喪服の女に身体を乗っ取られて?」


「そうではない。その男は、奈央が心寄せる同級生だ」


「心寄せる? 奈央が? あのいつもムスッとしてて、いけ好かない態度しか取れないやつが?」


 それに対して、タマはくすりと馬鹿にするような笑みを零す。


「それはお前に対してだけだろう。あの娘とて、ひとりの年頃の女なのだぞ」


「……」


 響紀は返す言葉がなかった。自分の知らない奈央というものを、学校におけるその側面を、響紀はこれまで真剣に考えたことなどなかったのだ。けれど、そうだ。と響紀は小さく笑んだ。それも当たり前か。身内に対する態度と友達や恋人に対する態度は全く別物だ。それは、俺だってよく知っているじゃないか。


「……なるほどな。アイツにも、彼氏ってのがいたんだな」

 それから頭を掻き、と同時に響紀は眉間にしわを寄せる。

「それで、まさかそんな事実だけを俺に教えに来たわけじゃないよな?」


「当たり前だ」

 とタマは響紀の眼をじっと見つめ、そして言った。

「――喪服の女の手のものたちが、今まさに奈央たちに迫っている。早く行け。手遅れになる前に」

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