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第12話

   ***


 真っ暗な空間だった。上も下もなく、右も左も前も後ろも判らなかった。全てが交じり合って混沌としており、混濁する意識の中で、彼は自分が何者であるのかすらまるで解らなかった。


 ここはどこだ、俺はどうしてここに居るんだ。何があった? なんで俺はここに居るんだ……? わからない、何もかも、すべて。


 彼は自身の姿を確認しようと試みたが、けれど彼の目が何かを映し出すことは全くなかった。代わりに声を発しようと思った。それができれば誰かが答えてくれるかもしれないと思ったからだ。しかし彼には声を発することもできなかった。さらに耳を、手を、足を――とにかく五感の全てを用いて自分自身を証明してみようと躍起になったが、どれ一つとして彼を彼たらしめる情報など与えてはくれなかった。


 彼は次第に焦りを覚えた。自身の証明ができないことだけでなく、この状態がいつまで続くのかという不安に耐えられなかったのだ。暗闇に閉じ込められた彼という存在は、その存在自体を否定されたように、ただただ闇の中を漂うだけだった。


 その焦りや不安をどこにもぶつけられず、表現できず、そもそも己が何なのか、本当に存在しているのか、存在していると思い込んでいるだけで、実はどこにも存在などしてはいないのではないか……そんなことを考え始めた時だった。ぼんやりとした光がすぐ目の前に見えてきたのだ。


 それはいつかどこかで見たことがあるような気のする映像で――そう、映写機。古い古い映写機で白黒の映画を観ているかのような、そんな印象を彼に与えた。


 そうだ、俺は映写機を知っている。映画を知っている。けれど、彼が彼自身であるという確証だけはやはりどこにも見当たらなかった。


 そこに見えたのは、一人の小さな女の子と、腹の出っ張った薄汚い男の、ふたりが向かい合った姿だった。男はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていた。女の子は何を考えているのか判らない、ぼんやりとした表情を浮かべていた。


 彼にはこのふたりが誰なのかわからなかった。いや、わからなくはない。解る、と彼の中の何かが囁いた。そうだ、俺はこいつらを知っている。でも、いったいどうして……?


 映像の中で、男は何ごとかを口にすると、続けざまに自身の履いていたズボンをずりおろした。露になった男の下半身に、彼はあるはずのない眉間に皴を寄せる。何だこいつは、こんな小さな女の子の前で何をやっているんだ。そんなことを考えていると、男は突然、目の前の女の子を押し倒した。女の子は力なく仰向けに倒れた。その女の子の着ている衣服を、男は無理やり脱がして――


 彼はその光景に、息の詰まる思いだった。今、目の前で繰り広げられているおぞましいその映像に、吐き気さえ催してしまいそうだった。女の子は男に無理やり犯されながら、けれど表情一つ変えなかった。変わらなかった。その女の子の身体を、男は欲望の赴くまま貪っていた。


 あまりのその有様に、彼は思わず目を背けようとして――自分のすぐそばに立つ女の子の姿にようやく気付いた。


 その女の子の姿は、今まさに目の前の映像の中で男に犯されている女の子と瓜二つで、彼と同じように、その映像をじっと見ている。ただ彼と違っていたのは、映像を見ているもうひとりの女の子は、映像の中の女の子と同様、表情一つ変えることなく、ただ茫然とその映像を見ているだけだ。


 彼はその女の子に、思わず声をかけていた。いったい、どこから発せられた声なのかは判らなかった。


「お前は、誰だ」


 女の子は彼に顔を向けることなく、映像に視線を向けたままで、

「――ユキ」

 と小さく呟いた。


「ユキ」


 彼がその名を繰り返すと、


「たぶん、それが私の名前」


「たぶん?」


「誰も私の名前を呼ばなかった。誰も私に名前をくれなかった。だから、私は私に名前を付けた。だからたぶん、私はユキ」


 それから不意に彼の方に顔を向けて、光を宿していないその真っ黒な瞳で見つめてくる。


「だけど、あなたが私をどう呼びたいかはあなたの自由。私はなんて呼ばれても構わない。私は私だから。いろんな人が私をいろんな名前で呼んでいたから」


「それ、いったい、どういう…… それに、お前……」


 彼は女の子の、その全てを吸い込んでしまいそうな真っ黒な瞳から逃れるように再び映像に顔を向けて、

「あれは、お前なのか?」

 その問いに、女の子も再び映像に顔を向けながら、

「……ちがう」

 と短く、小さく答えた。


「ちがう?」


 しかし、どこからどう見ても映像の中の女の子と、今となりに立つ女の子の姿は全く一緒で。


「あれは私じゃない。だって、私は今ここにいるでしょ? だから、あれは私じゃない」


「じ、じゃぁ、あれは誰なんだよ」


「知らない子」


 即答だった。まるで全てをを拒絶するような、そんな吐き捨てるような言い方だった。


「知らない子?」


「そう」


 女の子は、こくりと頷いた。

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