結奈のその言葉に、響紀は目を見張った。そして自身の胸に手をやり、そこに何かが蠢くのを感じ取った。その瞬間、更なる恐怖と不安が響紀を襲った。今、自分の中には、あの女の一部が――赤黒いナメクジみたいな何かが巣食っているのだと思うと、それだけで気持ちが悪かった。何としてでも自分の中からアレらを追い出してしまいたくて、地面に放り投げてしまった水筒に手を伸ばすと、響紀は残った水を一気に飲み干す。けれど、先ほどのようにナメクジを吐き戻すこともなく、ボタボタと飲んだばかりの水が地面に落ちて、雨と一緒に染み込んでいくのがすぐにわかった。
「……たぶん、無駄だよ」
結奈は言って、首を横に振った。
「言ってるでしょ? もう、あんたの魂の一部はあの女に支配されてるって。それはもうどうにもできない。私にも、どうしてあげることも出来ない。これはもう、あんた自身が、あんたの中に潜むそれらと戦って勝たないといけないんだよ」
響紀はその言葉に、ぎゅっと拳を握り締めた。何もかもが腹立たしくて仕方がなかった。こんなザマになった自分にも、喪服の女にも、奈央にも、結奈にも、香澄にも、そして両親にすらも怒りを覚えた。響紀の中で、恐怖と不安と憤りは、今まさに頂点に達しようとしていた。
決意したはずの心が音を立てて折れ、何もかもがどうでもよかった。すべてを投げ出して、何もかもなかったことにしたくなった。
いや、すればよかったのだ。何も自分が背負う必要なんてないのだ。何故ならば、自分はすでに死んでいるのだから。何も失うものなんてないのだから。
家族がどうした? 奈央がどうした? そんなもの、死んでしまった自分には何も関係ないじゃないか。
喪服の女のことだってそうだ。あの女がどうなろうと、何を望んでいようと、俺には何も関係ない。確かにあの女は俺を殺した。けど、それだけだ。俺は殺された、死んでしまった。それ以上でも以下でもない。あの女のために、奈央を連れていく必要なんて、俺には最初からありはしなかったのだ。
あの女が身体を朽ちらせようがどうでもいい。
そう、何もかも、どうでもいいことだ。
響紀は大きくため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
結奈はそんな響紀を、眉間にしわを寄せながら見つめていた。
「……なに?」
小さく呟くように口にする結奈に、響紀は答える。
「どうでもいいよ、もう」
えっ、と目を見張る結奈に、響紀はもう一度繰り返す。
「どうでもいいんだ、何もかも。俺には何一つ関係ないんだから」
「な、何言ってんのよ、あんた」
結奈は一歩踏み出すと、響紀の腕をぎゅっと掴んできた。身体なんてないはずなのに、確かに掴まれているという感覚がそこにはあった。雨に濡れた結奈の手はどこか冷たくて、痛くて、響紀はわずかに目を細めて、
「だから、もうどうでもいいって言ってんだろ? なんかもう、疲れた」
「じゃ、じゃぁ、奈央ちゃんは? ご両親のことはどうするわけ? あの女は、きっとすぐに次の手に出てくるはずなんだよ? 何とかしないと、もしかしたら今度はご両親を利用するかもしれない。奈央ちゃんを手に入れて、その身体を奪うかもしれない。それでもいいの?」
「……別にいいじゃないか、そんなの」
「あんた、何を言ってんの?」
響紀は「ちっ」と大きく舌打ちしてから、結奈に捕まれた腕を大きく振ってその手をほどく。
「しつこいんだよ、お前も、あの女も、奈央も、どいつもこいつもホント面倒くさいんだよ! もう放っといてくれよ! 俺には何も関係ないことじゃないか!」
「関係なくないでしょ? あんたの両親のことなんだよ? 妹みたいに思ってるって言ってた、奈央ちゃんの身が危ないんだよ?」
なおも縋りつくように腕を掴んでくる結奈の手を、響紀は必死に身をよじって振りほどきながら、
「あんな奴、妹でも何でもない、ただのガキだ! 親戚の子供だ! 赤の他人なんだよ、最初から! 親父やお袋だってそうだ! 血が繋がってようが何だろうが、俺以外はみんな他人なんだよ! どうなろうと知ったことか! そもそも俺は死人だぞ! 死んじまった俺に何の得があるって言うんだ? あの女をどうにかすれば生き返れるのか? どうなんだよ、結奈? 生き返れるのか?」
「そ、それは――」
口ごもる結奈に、響紀はふんっと鼻で笑う。
「な? そうだろ。どんなに頑張ったって俺は生き返れない。死んだ人間は死んだままだ。それとも何か? 俺もあの喪服の女みたいに、誰かの身体を乗っ取ればいいのか? そうだな、それもいいかもな。あの女にできたんだ、俺にだってできないわけがない。そうだ、誰か適当な奴でも見繕って試してみるか。別に誰だっていいんだ。そこら辺のおっさんにでも」
その瞬間、響紀の視界に結奈の長く白い脚が飛び込んできた。その脚は勢いよく響紀の脇腹に直撃し、すべてを言い終わらないうちに、響紀の身体は吹っ飛び数メートル先のご神木に激しく叩きつけられた。
あまりの衝撃に響紀は呻き声すら漏らすことができなかった。肉体があったなら、きっと今頃は背骨が真っ二つに折れてしまっていたことだろう、そう思わせるほどの力だ。
響紀の体はどさりと地面に落ち、あまりの激痛にしばらく起き上がることもままならなかった。手も足も痙攣し、意識も混濁しつつある響紀のそばに、結奈の足音が近づいてくる。
結奈は必死に立ち上がろうと試みる響紀の体を、さらに足で踏みつけながら、
「あんたがそう言うんなら、わたしにももう関係ない。好きにすればいい」
そしてさらにぐいっと力を込めて踏みつぶすように。
「……さっさと消えな、デキソコナイ」
――ぐちゃり。