そこにあるのは恐怖だった。女がかつての友人を喰った。その事実が、女が明らかに人ではない、恐ろしい化け物であることを響紀に教えてくれた。そして肉体を持たないということがどういうことなのか、響紀は己の存在が、より不確かなものであることを同時に理解したのだった。
自分もこの女に捕まってしまえば、同じように喰われるのではないかと身が震えた。けれどそれと同時に、彼女とすべてが一つになるという喜びが響紀の中に疼きだした。彼女に喰らわれた友人を羨ましく思い、激しくねたみ、この場から逃げ出したいという思いなど何処へ行ってしまったのか、逆に一歩、彼女の方へ向かって足を踏み出していた。
女はそれを見て満足そうに微笑み、両手を広げて見せる。
「……待っていたわ。あなたが帰ってきてくれるのを」
その言葉が、響紀の心をぐっと掴んだ。掴んで離さなかった。自分のすべてを認めてもらえた、欲してもらえた、それが嬉しくてたまらなかった。彼女なら自分を受け入れてくれる、すべてを包み込んでくれる、救ってくれる。
響紀はふらふらと女のもとへと吸い寄せられていった。そこには響紀の意思など存在しないかのように、ただ本能に付き従って、女を求めて、素直に、欲望の赴くままに、そして女の身体を強く抱きしめた。
女の身体は、ほんのりと暖かかった。化け物であるようには思えなかった。彼女は人だ。女だ。愛しい人だ。俺は彼女のことを愛している。彼女も俺のことを求めている。なら、どうして彼女に抗う必要がある? 彼女を拒絶し、逃げ出す必要がある? いや、ない。あるはずがない。俺は彼女のもので、彼女は俺のものだ。
響紀は顔が緩むのを止められなかった。彼女が自分を受け入れてくれることに至高の喜びを感じ、そしてその艶めかしい唇を静かに求めた。
女は響紀の唇を拒まなかった。拒むはずもなかった。女は響紀を求めていた。欲していた。だから俺を井戸に突き落として、殺して、肉体という枷を外して、この俺と一つに溶け込むことを望んでいたのだ。
女の舌が響紀の中で激しく蠢き、そのぬらぬらした感覚に響紀の思考は完全に蕩けていった。何が何だか解らず、解る必要もなかった。彼女に身をゆだねるだけですべては幸せだった。すべてが順調だった。彼女の口を介して自身に流れこんでくるナニかの感覚すら心地よく、このまま彼女の中に入りたくて仕方がなかった。
女は響紀の身体を優しく抱きしめ、そして執拗に求めてきた。響紀の意識はすでに彼女の中に入り込んでいた。彼女こそがすべてだった。彼女に包み込まれていれば、何もかもが幸せだった。
……そうだ。彼女のためなら、俺は何だってする。何だってできる。これが俺の産まれた理由、俺が死んだ理由、殺された理由。すべては彼女のために。
だから、彼女のために奈央を連れてこなければ。彼女の魂を移し替えて、そして彼女の存在を永遠のものにしなくてはならないのだ。ずっと彼女と一緒に居るために、一つになり続けるために、だから、俺は、今すぐに――
その時だった。
「響紀っ!」
突然、背後で聞き覚えのある叫び声が聞こえてきたかと思えば、ぐんっと背中を掴まれて響紀の身体は女から無理やり引きはがされた。
響紀は何が起こっているのか全く理解できないまま、どさりと尻もちをつくように地面に倒れる。痛くはなかった。痛いはずもなかった。なにしろ、肉体がないのだから。
いったい何が、と咄嗟に顔を上げてみれば、目の前には若い女が立っていた。
響紀を庇うように仁王立ちになって、喪服の女と対峙している。
響紀は若い女の尻越しに、喪服の女を見つめていた。
何が起こっているのか、まったく理解できなかった。
なんだ、この若い女は。何をしにここに来た。なんで俺たちの邪魔をするんだ。
ぼんやりとそんなことを考えている響紀の目の前で、若い女は何ごとかを喪服の女に向かって叫び散らかした。けれど、響紀には何を言っているのか聞き取れなかった。それが言葉であるのかすら、うめき声であるのかすら解らなかった。
そして次の瞬間、若い女は喪服の女に向かって何かを浴びせかけた。
それは無色透明の、ただの水のようにしか見えなかった。いや、水だった。きらきら光る、不思議な水だった。その水の一滴が響紀の腕にポトリと落ちて。
「あっつぅ!」
その激しい痛みに、響紀は一瞬にして我に返った。
寝ぼけていた感覚から、一気に現実に引き戻されたような感じだった。
なんだなんだ? いったい、何が起こってんだ?
改めて目の前に顔を向ければ、そこには結奈の顔がこれでもかと言わんばかりの距離にあって。
「早く立って! 今のうちに!」
「えっ? えぇっ?」
訳も分からず立ち上がれば、少し離れたところでは喪服の女が蹲り、
「熱い! 熱いぃ! 何をした! 私に何を浴びせかけた!」
苦しそうに叫び声をあげている。
「お、おい、お前、いったい、これ――」
戸惑う響紀に、結奈はその手首を強くつかんで、
「いいから! 早く逃げなきゃ!」
響紀の身体を引きずるように、全力で駆け出したのだった。