こいつはもはや、俺の知っているアイツではない。それなのに、こいつの見た目は俺が中学生だったころ、行方不明になった時から何一つ変わっていなかった。
……いや、その姿は変わっている、確かに。
少なくとも、俺の知っているアイツの腹からは、ズタズタに切り刻まれた臓物なんて、はみ出してなどいなかったのだから。
響紀は改めてかつての友人の姿を見つめ、そしてその異様さに顔をしかめた。そこに居るのはすでに人の心を失った化け物であり、人外であり、敵だった。響紀を井戸に突き落とした喪服の女の、その手下。どろどろの水の中へ引きずり込んで自分を溺死させたこの男に、響紀は「ちっ」と舌打ちを一つしてから、
「誰がお前らの仲間になんかなるか。ふざけるな」
じっと男を睨みつける。
かつての友人――男は「ふふっ」と笑みを零すと、首を横に振ってから、
「なら、なんで戻ってきた? そのまま逃げてしまえばよかったものを、お前はわざわざここまで、のこのことやってきた。何のためだ? いや、そんなことは聞く必要なんてないよな? お前は彼女の身体が恋しかったんだ。欲しかったんだ。あの快楽にもう一度包まれたい、魂を一つにして、心を一つにして、何もかも交じり合ってしまいたい。そう思ったからこそ、ここまで戻ってきたんだろう?」
「違う、俺は、そんなつもりでここまで来たわけじゃ」
否定する響紀を制止するように、男はすっと右腕を伸ばして手のひらをこちらに向けてくる。
「お前に自覚がないだけさ。お前はもう、彼女と身体を一つにしている。その身体の中に、彼女の一部を受け入れている。ただそれに気づいていないだけなのさ。ほら、思い出してみろ。彼女と一つになった時の、あの最高のひと時を。彼女の恍惚の瞳に宿る、すべてを受け入れてくれる闇の深さを。お前はあの時、彼女にすべてを捧げるつもりだったのさ。すべてを受け入れてもらうつもりだったのさ。彼女の中で、何度も何度も果てただろう? 彼女の中に、己の欲望を注ぎ込んだんだろう? お前はすでに、彼女とのウケイを終わらせているんだ。どんなにお前が否定しようと、お前の心が、魂が、その奥底で彼女を望んでいるんだ。だからお前は戻ってきた」
「黙れ!」
響紀は叫び、男のその右手首をぐっと掴んだ。それは男の言うことを真っ向から否定するために、かつて友人だったその男の口を閉じさせるために、反射的にそうしただけだった。
それなのに。
「ああああああぁっぁあああぁっ!」
その瞬間、男は突然絶叫した。
見れば、響紀の腕につけられたあのブレスレットが激しく光り輝き、その右手を介して男の右腕を包み込んだかと思うと、まるで燃え盛る炎となって現れたからだ。
これには響紀も驚き、思わずパッと右手を離した。
何が何だか解らなかった。
今一度ブレスレットに目を向ければ、その光はすうっと消えていく。
「な、これは」
独りごちるように口にしてから、男の方に顔を戻す。
――ぼとり。
男の右腕が肩口から崩れ落ちて、どす黒い大きなナメクジへとその姿を変えたかと思うと、激しく地面をのたうち回り、やがてぱんっと破裂して、辺りに黒いシミを残して、その右腕は消えてしまったのだった。
「な、なんだ、何なんだよ! 何をしたんだ、お前! 腕が! お、俺の腕がぁ!」
激しく動揺する男に、響紀もまた同じく驚きを隠せなかった。
香澄はこのブレスレットのことを、ただ『これを付けている限り、アレらは貴方には触れられない』としか言っていなかった。触れられない、なんてレベルじゃない。触れた途端に強い光を発して、一瞬にしてアイツの腕を焼き払ってしまったじゃないか。なんてとんでもないものを、あの人は――
「……どうしたの?」
門扉の向こう、庭へと続く細い通路の向こう側から、あの女は姿を現した。
真っ黒い服に大きなツバの黒い帽子。反対にその肌は透き通るように白く滑らかで、紅い唇だけが美しく花を咲かせる。
その姿を目の当たりにして、響紀の心はドキリとした。と同時に、今すぐにでも彼女の唇に吸い付き、その身体を抱きしめたいとさえ思った。彼女と今すぐにでも一つになりたい。彼女の身体を押し倒して、欲望の限りを尽くしたいと心の奥底からじわりじわりと激情が沸き上がってきた。
けれど、響紀はその気持ちを必死に抑えた。右手に巻いたブレスレットに左手を添えて、大きく深呼吸して心を落ち着かせる。この汚らしい、欲情しつつある己を何とか律する。ブレスレットに手を当てていると、次第にその気持ちが軽くなっていくのを感じながら、
「お前」
と口の中で小さくつぶやく。
「あぁああ! あああぁ!」
言葉にならない叫び声を上げながら、男は喪服の女に縋りついた。
その様子に、女は眉間にしわを寄せながら、
「あなた、その腕」
「こ、こいつが! こいつが俺の腕を!」
助けを求めるように、男は泣きながら女に言った。
女はまじまじとその崩れ落ちた肩口を見つめて、
「……そう、可哀そうに」
それから男を慰めるように、その胸に男の頭を抱きしめる。それはまるで、子供をあやす母親のようだった。女はしばらく男の頭を撫でていたが、やがてすっと男の唇に吸い付くと。
「んんっ! んンンんっ!」
途端に、男が苦しそうに残った手足をばたつかせ始めた。
女から逃れようと必死に藻掻くその姿に、響紀は眉間にしわを寄せる。
いったい、何が起こっているのか、何が行われているのか。
次いで聞こえてきたのは、じゅるじゅると何かを啜る激しい異音だった。
何を、と思っているうちに、男の身体が徐々に徐々に小さくなっていく。それに気づいたとき、響紀は悟った。
喪服の女は、この男を、かつての友人の身体を、啜るようにして飲み込んでいたのである。
「お、お前、まさか、そいつを」
響紀は全身から血の気が引いていくのを感じた。血などというものはとっくの昔に失っているのだから、そんなはずはないのだけれど、そう表現する以外に言葉が見つからない。戦慄し、立ち尽くし、ただ女が男を文字通り貪り食うところを戦々兢々としながら見つめ続けることしかできなかった。
やがて女は、かつての友人の身体を吸いつくして、口の端からどす黒い水を一筋垂らしつつ、
「本当に可哀そう。だって、もう、こうすることでしか、あの子は私と、一緒に居られなかったのだから」
言って、その細い指先で口の端を拭って見せた。
紅い唇に、不気味な笑みを浮かべながら。