響紀は眉間に皺を寄せながら、「トコヤミ?」と首を傾げる。いつかどこかで聞いたことがあるような気がする言葉ではあるのだけれど、ぱっと漢字が思い浮かばない。
「常なる闇、永遠の深淵。彼女はそれに飲み込まれて、人ではなくなってしまったの」そこで香澄はいいえ、と首を横に振り、自らの言葉を否定した。「彼女は依然として、人として存在している。けれど、その体はただの屍。偽りの肉体。すぐに朽ちて崩れてしまう。それ故にあの子は自分によく似た外見の娘を見つけては憑り殺し、その身体に憑いて新たな肉体とし、男を誘っては喰らっている。そういう存在なのよ、今のあの子は」
そこまで言って口を閉ざした香澄の横顔を、響紀はじっと見つめる。
「それはもう知ってる。あの女自身がそう言ってたからな、奈央の身体が欲しいって。その為に俺を利用しようとして、あの女は俺を殺したんだ」それから香澄に詰め寄るように顔を近づけ、「母さんも狙われたんだろ、あいつに」
その質問に、香澄は静かに頷いた。
「あれの下僕は肉体を持たない。それ故に姿を偽れる。彼らはあなたの姿になり、あなたのお母さんを惑わした。見えない筈の貴方の影を目撃したお母さんは階段を踏み外して、そのまま転げ落ちてしまったの」
「なんで、それを知ってる!」響紀は歯を食いしばりながら香澄の着物の袖を掴み、叫んだ。「その場にいたのか? そうなんだな? だからそんな事まで知ってるんだろ? 黙ってそれを見てたのか? なんで助けなかった! あんたなら出来たんじゃないのか、それくらい!」
感情を抑えきれなかった。ただただ腹立たしくて仕方がなく、誰かに当たらずにはいられなかった。もし助ける事ができたのであれば、助けて欲しかった。そうすれば母は怪我をしなくても済んだというのに。
「ごめんなさい」と香澄は口にし、俯いた。「その場には居なかったの、私」
「じゃぁ、なら、なんで」
そんな事を知っているのか、と問う前に、香澄は口を開く。
「――タマちゃんは、あなたのお母さんを助けようとした。けど、間に合わなかった。ただアレらを散らすことしかできなかった。それが精一杯だったのよ。わかって」
響紀は口を閉ざし、やがて深い溜息と共に、その手を香澄から放した。
しばらくの間、じっと床を見つめ、心を落ち着かせる。
タマとかいうあの女がその場にいた、それは解った。母さんを助けようとしたという話も、まぁ信じてもいい。あの女がいったい何者かは知らないが、俺の姿が見えたり触れる事ができるってことは、たぶん、宮野首の祖母であるこの香澄や、俺と同じ死者か何かってところだろう。
響紀は床に目をやったまま、香澄に小さく尋ねる。
「あんたらは、
それに対して、香澄は小さく頭を振り、
「私は彼女を、常闇から救い出したかったの。引っ張り上げたかったの。でも、それは叶わなかった。彼女が私を強く拒んだから。私を受け入れてはくれなかったから。何とか彼女を説得しようと試みたのだけれど……」
そこで香澄は溜息を吐き、天井を仰ぎ見ながら、
「彼女の男たちに川に引き摺り込まれて、死んでしまったの、私」
遠くを見つめるように、そう言った。