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第3話

   2


 響紀は車用門の前で、右へ左へ行ったり来たりしながら、悶々とした時間を過ごしていた。


 もう一度ミヤノクビに話を聞いてもらいたかったが、けれどあの様子だと取り付く島もなさそうだ。


 よくは解らないが、彼女には響紀が見えるだけでなく、例えば箒を一振りしただけで、遠くへ吹き飛ばせるほどの何らかの力を持っているらしい。だとしたら、ただ話しかけただけでは先ほどと同じように吹き飛ばされ、きっと同じことの繰り返しにしかならないだろう。或いは今度こそ、どこか見知らぬ土地まで吹っ飛ばされる可能性だってあるかもしれない。


 何か他に方法はないか、と考えに考えてはみたものの、しかし下手な考え休むに似たり。どんなに時間をかけて考えたところで、それはただ時間を無為に過ごしているのと何ら変わりなかった。


 かと言って、他に頼れるものがあるわけでなし、結局のところ、今の自分はあのミヤノクビとかいう巫女を何とか説得して、話を聞いてもらうしか道はないのだ。


 響紀はしばらく門の外から境内の様子を窺っていたが、やがて意を決してもう一度、恐る恐る敷地の中に足を踏み入れた。


 拝殿の脇を右に回り込み、ミヤノクビの去っていった社務所の方に歩みを進める。いくつかの小さな祠を右に見ながら本殿の後ろに回り込むと、その先に大きな社務所が見えた。響紀はその本殿の陰に身を潜めながら、社務所の様子を窺う。


 社務所のガラス窓の向こう側では何人もの神職者がパソコンに向かう姿が見えた。こうして事務仕事を行う彼らの姿を見ていると、案外どこも似たような感じなんだな、と思わずにはいられなかった。


 そんな社務所の中に、こちらに背を向け、何やらファイルを棚に収めている一人の巫女の姿が響紀の目に入った。彼女はしばらくファイルの整理をつづけていたが、やがてこちらに振り向いた。その顔を見て、間違いない、ミヤノクビだ、と響紀は確信する。


 彼女はその場にいる他の職員たちに静かに頭を下げて回ると、すっと奥の扉を開き、その向こうへと姿を消した。


 いったい、どこへ行ったのだろう。ここからでは、その扉がどこへ繋がっているのか、全く判らなかった。


 このまま社務所に侵入して、ミヤノクビを探し出すのもありかも知れない。どうせ俺の姿はミヤノクビにしか見えていないのだ。


「よし」


 一つ頷き、足を一歩踏み出した、その時だった。


 不意に響紀の鼻に、何やら甘い香りが漂ってきたのだ。


 何となく日本酒を想起させるその香りは、丁度本殿の裏手、響紀の立つ位置からすぐ斜め右手の方から匂ってくる。


 何だろう、と思い顔を向けてみれば、そこには木の囲いに守られた、古い井戸があった。傍らには『御神井』と書かれた札が立ち、どうやらこの甘い香りはその井戸から漂ってきているらしい。


 響紀はその匂いに吸い寄せられるように、気付くと木の囲いを跨いで井戸の底を覗いていた。ぽっかりと開いた井戸の口から見える薄暗がりの中、水面がキラキラときらめいているのが見てとれる。何の変哲もない、ただの水だ。あの黒衣の女のところにあった井戸のような、汚い水ではない。


 ただ甘い匂いは間違いなく井戸の底の水から漂ってきているようで、響紀は思わず唾|(それが本当に唾かどうかも判らなかったが)をごくりと飲み込んだ。


 何だか異様に喉が渇いて仕方がなかった。


 井戸の底を見れば見るほどその衝動は増していき、響紀はその気持ちを抑えることなどできなかった。


 ふと横を見れば、井戸の傍らには『使用厳禁』と注意書きされた木製の桶が掛けられている。桶にはご丁寧に太い縄が括り付けられており、その注意書きとは相反するかのように、まるで使ってくださいと言わんばかりに響紀には見えた。響紀は構わずその桶を引っ掴むと、繋がった縄を右手に巻き、ぽちゃんと井戸の底へと桶を落とした。


 初めてのことでなかなか上手く水を汲めず苦労したが、やっとの思いで引き揚げた桶に溜まった僅かな水からは芳醇な香りが漂い、響紀の鼻を刺激した。


 響紀はその桶に直接口をつけると、ごくりごくりと水を飲んだ。


 ――美味かった。


 その透き通るような奇麗な水は、これまで口にしてきたどんな飲み物よりも美味だった。


 それはまるで身体の中の穢れをすべて洗い流すかのように全身に染み渡り――

「……あんた、まだ居たの?」

 突然背後から声がして、響紀は思わずばっと振り向く。


 その眼が捉えたのは、果たして一人の女性だった。


 白いタンクトップに水色の薄いシャツを羽織り、小さく巻いた袖からはすらりとした腕が伸び、小さなショルダーの紐を掴んでいる。その女性のふくよかな胸元に響紀は一瞬気を取られ、次いでその顔に視線を向けたところで。


「――あっ」

 と口にした時にはすでに、響紀の身体は派手に砂利の上をゴロゴロと転がっていた。


 その長い脚に蹴り飛ばされたのは明白で、響紀は激痛の走る脇腹を手で押さえながら、苦悶の表情を浮かべて彼女を見上げた。


「いい加減、とっとと失せろって言ってんでしょ?」


 女――私服に身を包んだミヤノクビは、地に蹲る響紀を冷たい視線で見下ろしながら、そう口にした。


 響紀はそれに対して、痛む脇腹を擦りつつ、よろめきながら上半身をゆっくり起こした。そして歯を食いしばりながら、苦しげにミヤノクビに顔を向ける。


 そんな響紀を見て、ミヤノクビは眉間に皺を寄せながら、「なに? やる気?」と拳を構えた。


「ち、違う !」響紀は咳き込みながら、首を横に振り、「俺はただ、話を……」

 とそこまで口にして、響紀は胃の腑から駆け上がってくる突然の吐き気に口を覆った。


 何かがヌタヌタと食道を駆け上がってくる感覚に目を見開いた次の瞬間、口の中いっぱいに広がる異物と生臭いにおいに、堪らずそれらを砂利の上に嘔吐する。


「きゃっ!」とミヤノクビは驚きの悲鳴を上げ、はねた汚物から逃れるように飛び退いた。「なに? なんなの?」


 響紀は何度も激しく嗚咽を漏らし、あたりに汚物を撒き散らした。


 その赤黒い液体の中にはウヨウヨと蠢くナメクジのような塊が何匹も転がり、響紀もミヤノクビも、その得体の知れないモノから目を離すことができなかった。


 赤黒のナメクジらはしばらく砂利の上をのたうち回っていたが、やがて空から降り注ぐ僅かな陽の光に照らされて、まるで蒸発するように消えていった。


 あとにはただ、血溜まりのような痕跡だけが残されていた。

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