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いつの間にかシトシト降り始めた雨に、響紀はあっという間に濡れ鼠と化したが、しかし本人は至って気にも留めなかった。何があっても自転車での通学、通勤を続けてきた響紀にとって、こんな雨など意識の端にすらなかったのだ。
じめりとした空気にやけに体が重たく感じられ、響紀は時折足を止めては息を吐いた。何となく体が怠く感じるが、こんなところで立ち止まり、時間を無駄にするのはどうしても嫌だった。早く元の自分に戻りたい、こんな誰の目にも認識されない、よく分からない状態のままでいたくはなかった。
やっとの思いで山を越え、左側に空き地と化した田んぼを望みながら、響紀はとにかく歩き続けた。ここまでくる途中に遭遇したあの幽霊のような連中にまた会うんじゃないかと響紀は警戒していたが、けれどそんなものは一切現れることはなかった。
疲れによるものか、かなりの時間を掛けて歩き続けた響紀は、やっとの思いで家の前に辿り着いた。自分の時間の感覚がどれだけ正しいのかわからないけれど、恐らく昼を少し過ぎたくらいではないだろうか。この時間、父も母も仕事で家を出ており、奈央も今頃は学校で授業を受けているはずだ。しんと静まり返った我が家の様子は酷く寂しく、まるで他所様の家のようだった。
響紀は玄関扉の前に立ち、鍵を開けようとポケットから鍵を取り出そうとして気付いた。
そもそも、家の鍵を持って出ていない。鍵がなければ、家の中に入れないじゃないか。
はぁ、と響紀は溜息を吐くと玄関扉に背を向け、扉に寄りかかるようにずるずると腰を下ろした。
ここまで来て中に入れないなんて思ってもいなかった。小学校の頃なら花壇のどこかに鍵を隠していたりもしていたが、今はそんな不用心な事もしていない。母か奈央の帰宅を待つより他に方法はない。けれど、姿が見えないかも知れないとは言え、あんな事をしてしまった奈央に会う事自体が何とも気まずい。母もそうだ。母は何かと奈央のことを気にかけており、それこそ本当の娘のように大切にしている。きっと俺のしたことは今頃、母の耳にも入っているはずだ。いったい、どんな顔をして二人に会えばいいのか。できることなら、二人が帰ってくる前に家の中に入り、そして家を出て行きたい。いっそこのまま家に戻ることなく、あの後の自分の行方を思い出すことは出来るかもしれないけれど、なるべくあの時の、あの場所での自分の心情を、実際にその場で思い返したかった。
そんな事を考えながら、深い溜息を一つ吐き、ゆっくりと目蓋を閉じて。
「……えっ?」
次に目蓋を開いた瞬間、響紀は我が眼を疑った。
先ほどまで背を預けていたはずの玄関扉が目の前にあり、玄関の上がり框に響紀は腰掛けていたのである。
あまりの突然の出来事に、響紀は理解が追いつかず、ただ呆然としていた。何度も眼を瞬かせ、確かに自身が扉の内側、つまり我が家の中に居ることを再確認する。眼下の三和土、右脇にある靴棚、そして傘立て、壁に掛けられた名前も知らない誰かの絵。そのどれもが見覚えのあるもので。自分は確かに家の中に居るのだと確信するまで、いったいどれ程の時間を要しただろう。
……どうやって俺は、家の中に入ってきたんだ?
響紀は慌てて立ち上がり、家の奥の方へ振り向いた。薄暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がる室内はとても懐かしく感じられ、けれど同時に、誰も居ないその物悲しさに何処かしら恐れを感じる。
どう考えてもあり得ないことだった。先ほどまで間違い無く家の外にいたのに、気付けば家の中に居るだなんてこと、常識で考えてある筈がない。
けれど、と響紀はもう一度玄関扉の方に顔を向ける。
あり得ないことなら、昨日の夜からずっと続いている。顔の潰れた女、頭と足しかない女の子、後頭部の潰れた老爺、そして誰の目にも見えなくなってしまった自分自身……
嫌な考えが頭をよぎったけれど、響紀は頭を振ってそれを払った。
まだだ。まだ、早い。そう決まったワケじゃない。もしかしたら、俺の頭が変になっているだけかも知れないじゃないか。きっとどこかに鍵が隠してあって、無意識のうちに鍵を開けて入ったのだ。そして自ら玄関の鍵をもう一度閉め、ここに腰を下ろした。
……そうであって欲しかった。そうでなければ、俺は。
響紀はもう一度頭を横に振り、その考えを頭の隅に追いやった。とにかく今は、あの後の自身の行動を思い出すのが先だ。結論は、その後でいい。
靴を脱ぎ、足を一歩前に踏み出す。誰も居ない家の中は、やはりまるで他所の家のようだった。自分が完全なる部外者であるかのような錯覚を感じながら、すぐ左の襖を開けて居間に踏み入る。
ここで俺は、何を思ったのか、奈央を抱き寄せようとした。奈央は驚き、俺の腕を払おうとして身を捩り、驚愕の瞳で見つめてきて。
「……
あの時の奈央の顔を思い浮かべようとしたところで、突然頭に痛みが走った。響紀はこめかみを抑えながら、思わず膝をつく。
どうして、また……?
思いながら、響紀はもう一度奈央の顔を思い浮かべようと試みる。
「……うぅっ……あぁっ!」
その途端、痛みが増して視界がぼやけた。部屋の中がぐにゃりと曲がり、ぼんやりとした人の顔が見えてくる。長く黒い艶やかな髪に透き通るような白い肌、形の整った美しく紅い唇には微笑みが湛えられ、けれどその眼は決して笑ってなどいなくて。
響紀は最初、その顔を奈央だと思った。あの端正な顔立ちは奈央のそれととてもよく似ており、奈央が綺麗に化粧をしているのだと思った。しかし、響紀はこれまで一度も奈央が綺麗に化粧をしているのを見た覚えがなかった。
だから、違う。こいつは、奈央じゃない。奈央は俺に、こんなふうに微笑みかけてきたりはしない。じゃぁ、誰だ。誰なんだ、こいつは……!
響紀は呻き声を上げながら、床の上に倒れた。あまりの痛みに身を悶えさせながら、けれど必至にその女のことを思い出そうと、痛みに耐えながら歯噛みする。
やがて女の顔が徐々に遠ざかり、それに続くように女の全身が見えてくる。黒い衣服に身を包んだその女は、その背後に蠢く黒い影を従え、こちらに手を伸ばしながら、ゆっくりと、口を開いて――
気付くと響紀は仰向けに倒れ、ぼんやりと天井を見上げていた。いったい、いつからそうしていたのだろう。響紀は重たい頭を支えながら、ゆっくりと上半身を起こした。
俺はいったい、どうしたのだったか…… 確か、奈央を抱き寄せよとしたあれ以降のことを思い出そうとして、家に帰ってきて、居間に入って…… そうだ、黒衣の女の姿を思い出したのだ。
どんな顔の? ……思い出せない。けど、俺は確かにあの女を知っている。どこで知り合った? あいつは、俺に何を話しかけてきたんだ?
響紀は再度その女のことを思い出そうと努めたが、けれどやはり靄がかかったように記憶は不鮮明で何も思い出せず、そればかりか、無理に思い出そうとすると頭に激痛が走り、それどころではなかった。或いはこの頭痛の先に、自分の記憶が収められているのか。
深い溜息をひとつ吐き、響紀はおもむろに壁掛け時計に目をやった。午後十七時。相当長い間意識を失っていたことに響紀は驚愕し、慌てて立ち上がった。そろそろ母親がパートから帰宅する時間だ。姿が見えないであろうとは言え、面と向き合うなんてことできるはずがない。
響紀は足早に玄関に向かうと、そのまま外へ駆け出すのだった。