駆けに駆けて、響紀はいつしか住宅街を抜け、道路脇のコンビニの前に辿り着いた。
明るいコンビニの光の中、とにかく今は息を整えるべきだとその軒下に腰を下ろす。人目なんて気にするでもなく、どっかと尻を地について座る。あの女が追いかけていないかチラチラと気にしながら、けれどその姿が見えないことに安堵した。
ここから峠を越えて駅に向かうか、それとも反対側の会社の方に足を向けるか。駅に行けばその周辺には友人知人が住んでおり、しばらく泊めてもらえないか頼むことができるだろう。或いは会社へ向かい、これまでの無礼を詫びてもう一度働くチャンスを請うてみるか。少なくとも、そうすれば社用車に寝泊まりくらいさせてくれるかも知れない。
先ほどのあの女がいったい何だったのか、それはこの際置いておくしかない。俺は何も見ていない。見てないものは存在しない、それが理屈だ。
今考えなければならないのは、今後の俺の行く先だ。奈央がいる限り、俺は我が家に近づくことなんてできない。できるはずがない。あんなことをしておいて、これから先同じ屋根の下で奈央と暮らすなんてこと、できるはずもなかった。
響紀は深いため息をつき、すっと峠の方に顔を向けて、その途端、急激な眩暈に襲われた。
頭の芯が痺れるような感覚がして、次いでガンガンと頭を叩かれるような痛みが走る。
なんで、突然――?
思いながら峠の方から顔を逸らすと、不思議なことに、その眩暈と痛みは嘘のように引いていった。
そんな馬鹿な、と思いながら峠の方にもう一度顔を向ければ、やはり急激な眩暈と痛みに襲われる。
理由はまるで解らない。けれど、このままずっとここにいるわけにもいかない。
ふとコンビニの中に目を向ければ、店員が訝しむような表情でこちらを見ていた。
ここに長居して不審者として警察に通報されるのなんてまっぴら御免だ。峠の方へ向くと眩暈と痛みに襲われる以上、ここは反対側の道を行くしかないだろう。
響紀は溜息を一つ吐くと、ゆっくりと腰を上げ、ふらふらと歩き始めた。
歩いて会社へ向かうのは初めてのことだった。例え雨が降ろうが雪が降ろうが、響紀は常に会社までは自転車で通勤する。山一つ越えた先にある会社へのその道は決して楽ではなかったが、しかしそれが社会人になってからの唯一の運動だった為に、せめてもの思いで自らに課した約束だったのだ。
道はやがて踏切のある交差点を抜け、小学校の前をとぼとぼ歩いているうち、目の前に小型のショッピングモールが見えてきた。けれどこんな深夜にもなればすでに灯りは全て消えており、ひっそりと佇むその建物は、普段の姿からは想像もつかない程に、おどろおどろしい様相を呈していた。
響紀はそのショッピングモールを避けるように道路脇の歩道を歩き、山越えのある道を進んでいく。辺りは異様な程静かで物音ひとつせず、道行く車や人の姿すらどこにも無かった。
24時間営業のレンタルビデオショップやスーパーの前を通ったが、何台かの車はその駐車場に停まっているものの、人の居るような気配は全く感じられない。まるで世界に一人取り残されたような思いの中、不意に響紀は背後から聞こえてくる足音に気がついた。
「えっ」
響紀は思わず立ち止まった。すると、背後の足音も鳴り止む。
先程の女の件もあり、響紀は恐怖を感じながらも、ばっと背後を振り向いた。
けれど、そこには誰の姿も見えなくて。
……気のせいだろうか。周りに反響した自分の足音だったのかも知れない。なんて馬鹿らしい。
そう思い、再び歩き出す。
それに続くように聞こえ始める、もう一つの足音。
パタタ、パタタ、パタタ、と背後から聞こえてくる足音は、しかし響紀の足音とは音が微妙にズレている。これは明らかに自分の足音が響いている音ではない。自分以外の誰かの足音だ。
堪らず響紀は駆け出した。少ない街灯の下、前だけを向いて、只管に。
ところが、背後の足音もついてくる。
響紀の駆ける足に合わせて、ぴったりと、けれど、ズレた足取りで。
走っても走っても、後ろから聞こえてくる足音はいっこう遠ざかる気配がなかった。まるでそんな響紀を嘲笑うかのように、楽しげでもある。いや、事実背後からクスクスと子供の笑い声が聞こえてくるではないか。その声はやがてケラケラとはっきりとした音となって響紀の耳に届いた。
思わず後ろを振り向き、
「あっ……」
響紀は目を見張った。
そこには、草履をはいた子供の足が、闇の中にぼんやりと浮かんでいたのである。
脛より上は闇に溶けて見当たらず、楽しげな足取りで響紀の後ろを追いかけてくる。
その途端、響紀は足がもつれ、あっと思った時には激しい痛みとともに道路に体が叩きつけられていた。
響紀は呻き声を漏らし、よろめきながら半身を起こして――
「――っ!!」
すぐ目の前でニタリと笑う血塗れの子供の顔を見て、気を失った。