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第22話

   13


 ――眠たい。奈央の思考はただそこに尽きていた。


 昨夜は結局なかなか寝付けず、うとうとし始めたころにはすでに陽が昇り始めていた。それでも何とか一時間ほど眠り、スマホのアラームで眠たい目をこすりながら起床する。ぼうっとする頭を冷たい水で顔を洗うことによって無理やり覚まし、疲れたような顔を小母に心配されながら朝食を摂った。通学鞄を手に家を出たあたりから再び押し寄せてきた激しい眠気に、奈央は眉間に皺を寄せながら何とか自転車に跨ると、地を蹴ってふらふらとペダルを漕ぎ始めた。


 学校に着いたら、ちょっとでもいいからとにかく寝よう。じゃないと、体がもたない。


 そう思いながら奈央はいつもの峠道を登り、そして下った。頭には件の怪しげな男の事すら思い浮かばず、意識は遠く自分の教室の机の上にあった。


 気づくと奈央は自転車を押しながら、学校の駐輪場までとぼとぼと覚束ない足取りで歩いていた。


 ここまでの道程をまるで覚えておらず、部分的な記憶喪失になってしまったか瞬間移動したような気分だった。相変わらず頭の中は靄がかかったように不明瞭で、押し寄せてくる眠気の波にうつらうつらと首が前後左右に不安定に何度も傾く。やっとの思いで自転車を止め、奈央はふらふらと教室へ向かった。

 その道中、奈央はふと何者かの視線に気づいた。一瞬にして目がぱっちりと開く。それまでぼんやりと向けていた斜め下の地面から、周囲に視線を移動させる。けれどそこには自分と同じように自転車を止め、校舎へと歩いていく生徒たちの姿しかなかった。どんなに周りを見渡してみても、誰も奈央の事など見てはいない。


 気のせいか、と再び視線を地面に戻すと、

「――っ」

 その途端、再び奈央は視線を感じ、顔を上げた。けれど、やはり奈央を見ている者の姿はない。


 気のせい……だと思う。いや、気のせいに決まっている。このところの件で神経質になっているだけだ。


 そう自分に言い聞かせながら、奈央は校舎に向かうと自身の教室に入り席についた。鞄を掛け、いつものように顔を伏せる。眠りに誘われ、そのまますうすう寝息を立て始めた時だった。


 ――やっぱり誰かに見られてる。


 刺すような視線に気づき、奈央はがばっと顔を上げ、辺りの様子を窺った。


 今度はあまりにもあからさまだった。気のせいでもなかった。


 クラスの何人かが、頭を上げた奈央に呼応するように、わざとらしく顔を背けたのである。


 それは男子も女子も関係なかった。全員が、というわけではないようだが、明らかに複数のクラスメイトが自分の事を見ていたのが奈央には判った。けれど、その理由まで解るはずもない。今や彼らはまるで奈央の視線から逃れるようにそっぽを向き、或いはクラスの友人たちと談笑していた。


 なんで? どういうこと?


 奈央はすっとクラス全体を見渡して――後方の、小林の席でふと目がとまった。


 そこに小林の姿はなかった。彼が普段、何時頃に登校してくるかは知らないし、そもそも興味もない。けれど、ふと昨日の彼との会話を思い出すと、どこか嫌な予感がした。


『――あいつに何かされたのか?』


 じっと小林の机を見つめながら、奈央はその一言が気になって、あれはどういうつもりで話しかけてきたのだろうと考える。


 これまで小林が奈央に話しかけてきたことなんて、一度もなかった。当然、こちらからも必要以上に話しかけたことはないのでまともに会話すらしたことがない。図書委員の仕事中も基本的に隣で黙々と本を読んでいるだけだ。


 それが昨日になって、彼は突然に話しかけてきた。


 いったい小林は何を考えていたのだろう。何を思って、私に話しかけてきたのだろう。


 或いは皆が見てくる理由がそこにあるんじゃ――?


 奈央が思いながら視線を戻したところで、


「はい、みんな席についてー」


 担任――前田薫という名の現国の教師だ――がどこか憔悴したような表情で教室に入ってきた。その声にクラスメイト達は次々自分の席に戻っていく。やがて全員が椅子に腰を下ろすのを確認した担任は、小さく溜息を一つ吐き、


「あぁ……ちょっと色々あって、先生たちはこれから職員会議です。なので、一時限目は自習ということで各自お願いします。特に課題はありません」そこで担任は一度言葉を切り、「また、一部噂にもなってるみたいだから知っている人もいるかもしれません。ですが、噂は噂です。本気にしないで、むやみやたらに他人に吹聴しないこと。いいですね?」


 そう言い残して、担任は再び溜息を吐くと重たい足取りで教室から出ていった。


 噂? 何の? どんな?


 奈央は僅かに首を傾げたが、しかし一時限目が自習になったことを幸いに、今がチャンスとばかりに顔を伏せた。相変わらず奈央の体は睡眠を欲しており、このまま目を閉じるだけで意識を失って深い眠りに落ちてしまいそうだった。


 色々と気になることはあるのだけれど、こんな眠たい頭で考えられることなんて高が知れている。今は寝よう、とにかく寝るんだ。


 けれど――と奈央は目を見開き、ばっと顔を上げた。


「――っ!」


 今度は、目が合った。それも、一人や二人ではない。何人ものクラスメイトがこちらを見ている。顔を向けている。じっと奈央を見つめ、そしてまるで何事もなかったかのように一人、また一人と自身の机に視線を戻し、教科書とノートを取り出す。或いは仲の良いクラスメイトの方へ移動していく。


 今のは――何?


 奈央は戦慄し、それから逃れるようにして再び顔を伏せた。


 何も解らなかった。解りたくもなかった。ただただ胸が痛かった。とにかく眠たかった。眠たくて仕方がなかった。また誰かが見てる。痛い。視線。胸。眠たい。見てる。誰か。石上。小林。木村。居ない。どこに。何が。解らない、判らない、ワカラナイ――


 様々な気持ちや思いが溶け込み混濁していく意識の中で、奈央が最後に唯一はっきりと思ったのは、そう言えば今日の朝は木村君話しかけてこなかったな、ということだけだった。


 あとにはただ、真っ黒な闇がどこまでも広がっていった。

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