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誰かに頼まれたわけでもなく、特に明確な理由もないまま他者のクラスを訪れるなんてことのなかった奈央にとって、それは想像していた以上に勇気のいることだった。昼休憩の時間が近づくにつれ何とも言えない焦燥感に駆られ、同時にしくしくとした胃の痛みを覚える。思った以上のコミュニケーションに対する緊張感に、奈央は幾度となく深い溜息を吐いた。溜息を吐くと幸せが逃げる、なんて話を聞いたことがあるけれど、もしそれが本当なら、奈央の将来は不幸のどん底に突き落とされることになるのだろう。想像するだけで辟易した。
やがて訪れた昼休憩の時間。奈央は緊張で乱れた呼吸を整えながら、隣のクラス(奈央のクラスはA組なので必然的にB組)のドアの前に立ち、さてどう言って石上を呼ぼうかと思案していた。いつでも遊びに来い、なんて言われて実際に訪ねるなんて初めての事だったし、だからと言って、まさかいきなりこちらから「お友達になりましょう!」なんてことを言えるはずもなかった。
胸に手を当て、大きく息を吸い、そして吐く。
傍から見て、今の自分はどう見えているのだろう。先ほどから廊下を行き来している生徒たちの何人かから強い視線を背中に感じているが、いつまで経ってもドアの前に突っ立ったまま一向に開けようとしないその姿は相当怪しいに違いない。このままずっとドアとにらめっこを続けていたって仕方がないのはわかっているが、かといってどう声を掛ければいいものか――
そうやっていつまでも悩み続けていると、ガラリと音がして教室のドアが突如開いた。
「――あっ」
「えっ……」
すぐ目の前に現れた一人の少女――ショートヘアの黒髪に大きく澄んだ瞳が印象的だった――は奈央を見て目を見張った。まさかドアを開けた先に奈央が突っ立っているとは思わなかったのだろう。その驚きは想像するに難くなかった。
奈央は立ち尽くした少女を見つめたのち、勇気を振り絞って声を掛けた。
「あ、あの――」
「な、なに……?」
少女の目に、一瞬の怯えが見える。どうしてだろう。
「い、石上さん、居る、かな……?」
その瞬間、一際大きく見開かれる少女の目。はっと息を飲む音が聞こえ、何故か奈央から一歩、あと退る。その様子に、奈央は言い知れぬショックを受けた。
もしかして私、避けられてる……?
「い、石上?」と少女は声を震わせながら、「ま、まま、麻衣のこと?」
「うん、そう――」
奈央の返答に少女は背後を振り向き、クラスの友人たちに何やら目配らせをする。まるで視線だけで会話をしているかのようだ。いったいどのような会話が今、この少女たちの中で行われているのだろうか。友達というものを持ったことのない奈央にとって、それはまるで解らない世界だった。
やがて少女はゆっくりと一つ頷くと奈央に顔を向け、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「ま、麻衣なら、昨日から、来てないけど――」
「来てないって、風邪?」
「え、えっと――」
口ごもり、再び背後を振り返る少女。奈央もつられて彼女の視線の先、その友人たちの方へ顔を向ける。友人らは奈央の視線に気づいたのか、あからさまな様子で視線をそらし、或いは顔を背けた。明らかに避けられている。そう思った途端、急に胸が苦しくなった。思ったように息ができない。お腹がしくしくする。どこかしら頭の痺れもあった。
少女は友人たちの様子に小さく「えっ」と口にして、わずかな震えとともに奈央に顔を戻した。けれどその眼は奈央をとらえてはおらず、まるで奈央の背中の向こう側、窓の外のはるか遠くを見ているかのようだった。そんな少女の口が、小さな声を漏らす。
「たぶん、そう、風邪――」
その声を聴きながら、けれど奈央もその言葉をうまく認識できてはいなかった。心臓がバクバクと強く脈打ち、呼吸が荒くなる。ただ一刻も早くこの場から立ち去りたい、そんな思いにとらわれていた。
「そ、そう。ごめんなさい、ありがとう――」
「う、ううん」
言うが早いか、教室のドアを閉める少女。
「――なに、あれ! こわぁ!」
ドア越しのその声に、奈央はズキンと胸の痛みを覚え、そして何を感じたか。それは言うまでもなかった。