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第10話

 全力で峠を駆け上り、やがて頂上付近の廃屋の前を通り過ぎたところで奈央はようやく自転車を止めた。激しく上下する胸を抑えながら、ぜぇぜぇひゅうひゅう鳴る息を整える。後ろを振り向き、先ほどの男が追いかけて来てはいないことを確認してから、大きな安堵の溜息を吐いた。


 逃げるようにしてここまで一気に駆け上がってきたけれど、本当に良かったんだろうか。確証もないまま人を疑ってしまったことに僅かばかり後ろめたさを感じながら、しかしあの後ろ暗い影を背負う笑みを思い浮かべるだけで戦慄が走った。用心するに越したことはない、奈央はそう自分に言い聞かせる。


 やがて呼吸が落ち着いたところで、身体が膝頭の痛みを思い出した。ズキズキする傷口には茶色い土埃。せめて汚れだけでも拭いておこうとポケットに手を入れたところで、


「――あれ?」


 奈央はハンカチがないことに気が付いた。そんなはずはない。朝、家を出るときに確かに入れたし、何より学校を出る前に入ったトイレで使ったのだから、少なくともその時点まではあったはずだ。なら、いったいどこで落としてしまったのだろうか。


 奈央は焦りを覚えた。何故ならばそのハンカチは、奈央が高校に入学した際に父親からプレゼントされた祝いの品だったからだ。隅に薄紅色の朝顔の花が一輪刺繍された、真っ白なハンカチ。どことなく年寄り臭さを感じさせたが、父親が迷いに迷って普段使いできるようにと選んだであろう、今となっては唯一父親との繋がりと思っていたあのハンカチを落としてしまったことに、奈央の顔は青ざめた。


 まさか、あの時? 自転車が倒れてこけた時に落とした? 解らない。そう簡単に落ちるとは思えないけれど、その可能性が全く無いわけじゃない。もし学校で落としたのであれば、もしかしたら職員室に誰かが届けてくれているかもしれない。そうであってくれたなら、どれだけいいだろう。でも、もしそうじゃなかったら? さっきこけた時にポケットから落ちたのだとしたら? そのうえで、あの男に拾われていたりでもしたら――


 どうしよう、引き返そうか。引き返して、さっきの場所に落ちていないか確かめようか。


 けど――怖い。


 もしあの怪しげな男が拾っていたりしたら。そしてそれを返してほしいと頼んだ時に、何かを要求されでもしたら。いや、それは疑い過ぎというものだろう。きっと「よかった、どうやってこれを返そうか悩んでいたんだ」と笑顔で返してくれるはずだ。


 ――本当に?


 どうしてそんなことが言いきれる? あの怪しげな笑いを見たでしょう? 本当にあの人が善人だって言える? もし家の中に無理やり引きずり込まれて、犯されたりでもしたら? そんな目に合わないっていう保証でもあるの? もしそうなってしまったら、私には到底太刀打ちできない。だって、あの腕を見たでしょう? 体は細身だったけれど、あの腕の太さはそれなりに鍛えられたもののはずだ。あの腕で羽交い絞めにでもされたら、私には何もできない。あの手で口を押えられたら、首を絞められたら、私なんて叫び声を上げることすらできないだろう。そしてそのまま押し倒されて、身包みを剥がされて――その先は、ただ想像するだけでもとても恐ろしかった。


 奈央は頭を振ると、深い溜息を一つ吐いた。


 明日の朝、職員室に行ってみよう。もしそれであのハンカチが見つからなければ、諦めよう。わざわざ危険を冒してでも取り戻したいほどのものでもないし、そんなことで父親との繋がりが絶たれるわけじゃない。


 でも、と奈央は名残惜しそうにもう一度来た道を振り向き再び深い溜息を一つ吐くと、ペダルを強く踏み込んだ。

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