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梅雨独特の重たい雲間から久方ぶりの青空が覗くなか、奈央は学校へ向かうべく、自転車で峠道を下っていた。長い黒髪を風になびかせながら、すぐ右側を走る自動車に接触してしまわないよう、注意を払いつつハンドルを握る。もとよりこの時間帯は通勤通学で自動車や自転車、歩行者が多いだけでなく、ただでさえ細い歩道の関係上、以前から接触事故が絶えなかった。死亡事故こそ耳にしたことはなかったが、或いは奈央が知らないだけで、かつてはそんな大きな事故があったとしてもおかしくはない。
そんな峠道を下りながら、奈央はふと昨夕のことを思い出していた。あの黒い服に黒い傘を差していた女の子は、いったいどこの誰だったんだろう、と。あの時、確かにあの女の子は奈央を見てにっこりと微笑んだ。それはまるで、奈央のことをよく知っている人物であるかのような、ごく自然な微笑みだった。やはり同じクラスか、そうでなくとも同じ高校の誰かかもしれない。ただ奈央が覚えていないだけで、あちらは奈央のことを覚えていた。だから微笑みを浮かべた。そう考えれば自然、納得がいく。
奈央はこれまで幾度となく転校を繰り返した結果、特別仲の良い友達といったものをもったことがなく、加えて半年から一年という短期間しか在籍していなかったこともあって、クラスメイトの顔と名前を覚えるということを自ら放棄してきた。どうせ覚えたってすぐに転校してしまうのだという思いから、いつしか奈央は友人という存在に諦めを感じていたのである。そしてそれは小父や小母の下で暮らすようになってからも変わりはなく、むしろその弊害というべきか、なかなかクラスメイトの顔や名前を覚えられずにいた。今も自分の座る席の前後左右程度なら覚えているが、その他となるとかなり怪しい状態だった。また、それに加えて長年の『おひとり様』歴の所為か、友人が居なくとも別段困ることもなく、寂しいとさえ思わなかった。その為、奈央は自ら進んで友人を作ろうとすら思うこともなく、休憩中なども予習や復習、或いは小説を読んだりと、ただ自分のためだけにその時間を費やしてきた。クラスの何人かはそんな奈央に話しかけてきたりすることもあったけれど、これまでの『おひとり様』歴の所為でどう答えたものか、或いはどう接したらいいのかまるで解らず、ただ曖昧な(それでも精いっぱいの)笑顔とともに様々なお誘いを断っていった。その結果、入学式からのこの二か月で誰も話しかけてくることもなくなり、これまで通りの『おひとり様』という地位を確立してしまったのだった。
こんなことなら、もう少しクラスメイトに興味を持っておくんだった。奈央は今更のようにそう後悔した。そうすれば、もしかしたら今頃はもっとクラスメイトの顔と名前を憶えられていたかもしれないし、昨夕の女の子の事だってすぐに判ったかもしれないのに。
奈央は大きな溜息を一つ吐くと、これからはもう少し、クラスメイト達に目を向けてみよう、と心に誓うのだった。