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病室の前で、大樹は「ちょっとトイレに」と言って病室のすぐ隣にあるトイレに体を向けた。奈央は大樹が僅かでも自分から離れることに不安を覚えつつも、しかしトイレの中までついて行く訳にもいかず「うん」と答えてそれを見送り、先に病室に入ると小母のベッドへ向かった。
カーテンを捲りながら、「ただいま、小母さん」と声を掛けたところで、
「……っ!」
奈央は思わず息をのむ。
小母は先程と同じ体勢のままテレビをつけっ放しにして居眠りをしており、静かな寝息を立てている。その傍ら、窓を背にするようにして一人の男が佇み、小母の手を握りながら寂しげな表情を浮かべていた。
……響紀だった。
響紀が今、私の目の前にいる。
「……あっ」と奈央は思わず言葉にならない声を漏らした。その途端、響紀はそれに気付いたように奈央に顔を向けた。視線が交わり、互いの存在を認識し合う。
帰ってきたんだ、と奈央は口元を僅かに綻ばせる。今までどこで何をしていたのかわからないけれど、そんなことはどうでもいい。響紀が帰ってきてくれた、ただそれだけで十分だった。きっと小母は心から喜ぶだろう。そして言うのだ。「おかえりなさい」と。
けれど響紀はそんな奈央を見て溜息を一つ吐いて俯き、ゆっくりと首を左右に振った。小母から手を離し、すっと霧のようにその姿を消していく。
「えっ……」
そうして気がつくと、そこには先程奈央が去っていった時と同じ光景があるばかりだった。
どこにも響紀の姿はなく、どこにもそんな形跡はない。カーテンの小さな揺れだけが何かが去っていったであろうことを感じさせたが、しかしそれだけだ。奈央は直立不動のまま、呆然とそれを見つめることしかできなかった。
今のは、響紀?
奈央は狼狽し、如何にそれを受け止めるべきか解らなかった。夢か幻か、それともまさか、という思いが駆け抜ける。昨夜見た響紀の姿と重なり、奈央はそんな、と拳を握りしめた。認めたくない思いとそれ以外に考えられないという予想の狭間で奈央の心は激しく揺れる。きっとあれは見間違えだ、ここに居て欲しい、小母の傍で見守ってあげて欲しいと思う自分の心が生み出した幻なのだと思いたかった。
だって、さっき会った宮野首さんのお婆ちゃんも言っていたじゃないか。
響紀は大丈夫だ、と。
「……どうしたの、奈央?」
後ろから声がして慌てて振り向けば、そこにはハンカチで手を拭く大樹の姿があった。
大樹は奈央の様子に心配そうに眉を顰めながら、
「また、何かあった?」
奈央はその言葉に口を開き掛け、そしてまた閉じる。それを口にしてしまえば自分の中で結論が確定してしまいそうな気がして、どうしても言葉にできなかったのだ。
そうだ。響紀はきっと大丈夫だ。どこかで無事に居て、そのうちひょっこり戻ってくるに違いない。今はとにかく、お婆さんの言うことを信じるしかなかった。
「……小母さん、寝ちゃってるから、どうしようかなって」
誤魔化すように言った奈央の言葉を、大樹は特に疑う様子もなく素直に受け取ったらしく、
「ああ、本当だ。どうする?」
「……起こすのも可哀想だし、どうしよう」
二人はしばらく小さな寝息を立てる小母を見ていたが、まさかこのまま小母の寝顔を見続けるのも何だか居た堪れなくて、
「メモを残して、もう行こっか。帰ってテスト勉強もしなきゃだし……」
奈央は言って、鞄から手帳を取り出すとメモのページを一枚破り、そこに『寝ていたから起こしませんでした。また明日も来るね』と書いてテレビ台の上にそっと置き、大樹と共に病室をあとにした。