その言葉に、奈央は口を噤んだ。やはり、と思うのと同時に、何故この老婆にはそれが解るのかと改めて動揺する。そして昨日、この老婆の孫だという玲奈――或いは玲奈の姿をした別の何か――も同じことを言っていたことを思い出した。
『眼を付けられました』
『あちこちに奴らが居ます。あの“女”の者たちが』
やはり最初から玲奈――の姿をした者――の言葉通り、あの峠の廃屋を避けて帰るべきだったのだ。わざわざ玲奈が『あの家には、絶対に近づかないでください』と忠告してくれていたのだから。そうすれば、私が眼を付けられることもなかった――
「――違う、違うのよ」
不意に奈央の後悔を遮るように、宮野首の祖母は口にした。
奈央ははっと我に返り、老婆に顔を向ける。老婆はやや下方の地面を見つめながら小さく溜息を漏らすと、僅かに逡巡するようなそぶりを見せ、ゆっくりと口を開いた。
「……あの子の目的は、初めから貴女だった」
奈央は目を見開き、じっとその横顔を見つめる。
「響紀くんは、ただ、それに巻き込まれただけ」
老婆の言葉の意味が、奈央には理解できなかった。ただ頭の中でその言葉を反芻するばかりで、一向に考えがまとまらない。
いや、まとまらないのではない。受け入れられないのだ。
心のどこかではそれを認めている自分がいる。もしかして、と疑いつつも、帰ってこない響紀こそがあの女の目的だったのだ、自分はそのとばっちりを受けているだけなのだ。そんなふうに思い込むようにしていた。
――けど、違う。そうはっきりと口にされてしまうと、自分の中のその思い込もうとしていた部分が、音を立てて崩れていくような気がしてならなかった。解らなかったのではない。解ろうとしなかったのだ。それが判明してしまえば、自分の心を保てなくなるから。例え大樹に心の安寧を求めて事の真実から目を逸らせようとしても、確実にその恐怖からは逃れられなくなってしまうだろうから。だから、考えないようにしていたのに。
「なんで……どうして……私が……」
絞り出すようにして出てきた言葉は、ただそれだけだった。
「あの子の身体はもう保たない。限界を迎えてる。新たな身体を手に入れて、永遠に生き続ける死者とも生者とも言えない状態を続けようとしているの。その為に、あの子は貴女の身体を求めて動いてる。貴女の周りで起きているのは、あの子が差し向けた死者の仕業よ。あれらはあの子の指示の下、貴女をどこまでも追いかける。どこに逃げても、地の果てまで追いかけて、貴女をあの子の下へ連れて行こうとするでしょう」
どんな手段を使ってでも、と言って老婆は深い溜息を一つ吐いた。
奈央の思考は完全に止まり、ただ震える手足をそのままに、老婆の横顔を見つめることしかできなかった。口の中がカラカラに乾き、唾を飲み込むことすらままならない。激しく脈打つ心臓のどくどくという音が全身を覆い、周囲の喧騒も聞こえなかった。
「貴女に逃げ道はない」言って老婆は申し訳なさそうに、けれどその瞳には確かな光を宿しながら、「だから、立ち向かいなさい。このままでは、貴女の大切な家族も巻き込まれかねない。事実、貴女の小母さんはその為に狙われた。恐らく、次は小父さんでしょう。或いは貴女のお父さんや――お母さんかも知れない。クラスの友人や木村くんだって、いつあの子の手に落ちるか判らないのだから。だから、立ち向かうの」
老婆のその言葉に、奈央はがくがくと首を横に振りながら、
「い、嫌――無理よ、だって、あんな――」
あんな、得体の知れない奴に立ち向かうだなんて。
「大丈夫」
そう言って老婆は懐に手を差し入れると、空色の紐のような物を取り出した。小さなレースのブレスレットだ。中心には綺麗な花の刺繍が施されており、白い五芒星のついたチェーンで巻き付けるようになっていた。老婆は奈央の震える腕に手を伸ばすと、そのブレスレットを巻きながら、
「このお守りが、必ず貴女を守ってくれる。だから、安心して」
にっこりと微笑んで、そして奈央の手を、そっと優しく握りしめるのだった。
不思議なことに、その手には温かみというものがまるでなかった。と言って冷たいわけでもない。確かに触れているのに、その感触が全くないのだ。まるで腕より先が映像か何かの現実とは切り離された別の所にあって、自分はただそれを見ているだけのような――
「奈央!」
その声に、奈央は思わず辺りを見回した。ふと公園の入り口の方に顔を向ければ、そこには大樹の姿があって、こちらに向かって手を振っている。その姿に、奈央は思わずほっとした。それまでの不安が払拭され、妙な安堵に包まれる。
大樹はそんな奈央の方まで小走りに駆けてくると、「一人で何してんの? こんなところで」と口にした。
「一人で?」と奈央は首を傾げながら、「一人じゃないよ。今、宮野首さんのおばあちゃんと――」
そう言いながら顔を向けたそこには、しかし老婆の姿はどこにもなかった。
えっ、と奈央は思わずベンチから腰を浮かせて目を見張り、慌てたように立ち上がった。周囲を見回しても、どこにもあの老婆の姿は見当たらない。つい今しがたまでそこに座っていたというのに、まるで夢か幻だったかのように、老婆の居た痕跡はどこにもなかった。けれど目を向けた右手首には、確かにあの空色のブレスレットが巻かれた状態でそこにはあって。
「そんな……居たのよ、確かに……ついさっきまで、ここに――!」
奈央は動揺を隠せなかった。どんなに足が速くても、そんな僅か数秒で姿を晦ませることができるとは到底思えない。しかも相手はそれなりの老体だったのだ。ただでさえ歩き辛そうな着物姿だったというのに、あんな一瞬で姿を消してしまうなんてこと、現実的にできるはずがない。
「居たの? 宮野首のお婆ちゃんが、ここに?」
眉間に皺を寄せながら問うてくる大樹の顔は、まるで奈央のことを疑っているように見えて、「居たの、絶対に!」と奈央は思わず大樹に詰め寄るように叫んでいた。
「だって、このブレスレットをくれたのよ? お守りだって言って! さっきまで私、こんなのしてなかったでしょ? 覚えてるよね? ねぇっ?」
そんな奈央の両肩に、大樹は慌てたようにそっと手を添えながら、
「だ、大丈夫だから奈央。信じる、信じるから、ちょっと落ち着いて……!」
と優しく声をかけてきた。
奈央は大樹のその言葉に、じっと彼の顔を見つめる。大樹は真剣な眼差しで奈央の顔を見つめ返しており、その表情のどこにも奈央を疑ったり、馬鹿にしたりするような様子はなかった。
奈央は胸に手を当てながら深い深い溜息を一つ吐くと、ゆっくりと息を整えながら改めて周囲を見回す。何事かとこちらに視線を寄越す看護師と患者の姿に気づき、恥ずかしいことをしたなと思いながら、よろめくようにベンチに座った。
それに続くように、大樹も奈央の隣に腰を下ろす。彼は少しの間空を眺めていたが、やがて何かを決心したように、
「宮野首のお婆ちゃんなら、僕も知ってるよ」
そう、口にした。
「えっ?」と奈央は驚いて目を見開く。「――そうなの?」
そんな話、これまで一度だってされたことはなかった。けど、それは当たり前の事か、と奈央は溜息を漏らした。そんなの、敢えて話すような内容ではない。こういう事がない限り、わざわざ何処何処の誰々が実は知り合いで……とはならなかっただろう。そもそも、これまでが登校時や委員会くらいでしか大樹とは顔を合せなかったのだ。それも仕方のない話だろう。
「うん」と大樹は一つ頷くと奈央に顔を向け、「実は中学卒業まで僕もこの辺りに住んでてさ。ほら、奈央と同じクラスに宮野首玲奈と矢野桜、あと村田って男子がいるでしょ? あの三人とは、同じ部活に所属してたんだ。その時に、何度か宮野首を迎えにお婆さんが学校まで来たことがあってさ。よく一緒に話をしたよ。だから、お婆さんのことは僕も知ってるんだ」
大樹はそこまで喋ると一呼吸置き、すっと視線を前に戻した。両腕を頭上に上げて大きく伸びをひとつすると、笑みを浮かべながら話を続ける。
「ただ、僕だけ高校入学前に親が浅北に新築の家を買って引っ越してさ。あぁ、これでみんなとは会えなくなるのか、なんて思ってたんだけど、運よく四人とも鯉城高校に合格して。仲が良かったから嬉しかったな。ただ、僕だけコースが違うから別のクラスでさ。それでもやっぱり前からの付き合いだし、実は奈央の話もよく矢野や宮野首たちから聞いてたんだ」
「……そう、なんだ」
奈央は答え、大樹の見つめる先、藤棚の方へ顔を向けた。
本当に、私は大樹くんの事を何も知らずに付き合おうとしてたんだな、と自身のあまりの軽率さに猛省する。たぶん、あんな怪異さえなければ、今頃はこうして並んで座るなんてこともなかっただろう。付き合うにしても、もう少し互いの事を理解してからにしていたはずだ。
とは言え、大樹と一緒に居ることに後悔はなかった。好きという感情だって嘘偽りはない。知らないなら知らないで、これから知っていけばいいだけの話だ。何より、大樹はあの異形が現れた時、必死に私を助けようとしてくれたじゃないか。それだけで、奈央にとっては十分だった。
それにしても、と奈央は大樹の方に顔を戻し、「あのお婆ちゃん、いったい何者なの?」と首を傾げた。「突然現れて、色々と訳の解らない話をして、こんなブレスレットまでくれて。喪服の少女の事とか、響紀の事とか、なんであの人がそんなの知ってるわけ? 怖い感じはしなかったけど、なんて言えばいいんだろう、その――」
どう表現すればいいのか解らず戸惑う奈央に、大樹は「僕も詳しくは知らないんだけど」と口を開いた。
「宮野首のお婆ちゃん、昔は神社の巫女で霊能者だか霊媒師だかやってたらしくてさ、よく祈祷やお祓いとかしてたんだって。そのお婆ちゃんがブレスレットを奈央にくれたんなら、きっと何か意味があるんじゃないかな」
よくわからないけどね、と言って大樹は曖昧な笑みを浮かべた。
奈央は納得しかねる表情でブレスレットを眺め、その一見して何の変哲も無い代物に再び首を傾げる。
『このお守りが、必ず貴女を守ってくれる。だから、安心して』
その言葉が思い起こされ、奈央は何だか狐に抓まれたような気分だった。こんな頼りない見た目の御守りに、果たしてどれだけの力があるというのか。
それに、あの言葉だ。
『貴女に逃げ道はない。だから、立ち向かいなさい』
途端、奈央は全身の毛が逆立つのを感じ、思わず大樹の腕にしがみついた。
「……えっ、奈央? どうしたの?」
突然のことに驚く大樹に、しかし奈央は答えられない。
立ち向かう? 私が? どうやって?
そんなこと、今は考えたくもなかった。
奈央はぎゅっと大樹の身体に身を寄せると、今はただ、心を落ち着けることしかできなかった。