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大樹くん、どこまでいったのかしら、と奈央は廊下を見回した。院内は基本、携帯電話等の使用は禁止になっている。本来なら電源を切るよう掲示されていたが、その指示に従う者は恐らく極少数だろう。
大樹の性格から察するに、彼はそういった規則をなるべく守ろうとするはずだ。大樹の学校における普段の服装や態度から、それはほぼ間違いない。
先程はうっかり電源を切り忘れたかマナーモードにし忘れたかで随分慌てた様子で電話に出ていたけれど、逆にどうして彼は院内で電話に出たのだろうか? 一旦保留にするなり、着信を切ってあとから掛け直すなりすれば良かったのに。たまたま出てしまっただけか、或いはどうしても出なければならないような理由があったのか。
いずれにせよ、電話に出た大樹が向かう先はどこだろう? 院内は通話禁止、けれどどうしても出なければならない電話に対し、大樹が行いそうな行動は?
……簡単な話だ。病院から一旦、外に出ればいい。あいにくこの病院にはバルコニーのようなものは見当たらないし、恐らく一階まで下りて外へ出てしまったのだろう。
奈央は一度階下に降りるとロビーを抜け、正面玄関に出た。けれどそこには大樹の姿は見当たらず、いったいどこへ行ってしまったのだろうと辺りを見回す。病院の正面はロータリーになっており、その先には最近整備されたばかりの広めの公園が見えた。遊具こそ滑り台と砂場くらいしか見当たらないが、この広さならばお年寄りがゲートボールをしたり、子供たちが駆け回りながらボール遊びすることもできそうだ。
もしかしたらあそこだろうか。奈央は思い、公園の方に足を向けた。
公園にはまだ設置されたばかりの綺麗なベンチがいくつもあって、その傍らには大きくて綺麗な公衆トイレ、また一角には大きな藤棚が見える。ここ数年で急速に行なわれた駅前開発の一環か何かで設けられたものらしい。藤棚の下にもいくつかのベンチがあって、病院の患者らしき人と看護師さんの姿もあった。
けれど、その公園のどこに目を向けても大樹の姿は見えなくて。
「おかしいなぁ…… どこまで行ったんだろう」
そう、奈央が独り言ちた時だった。
「――お嬢さん?」
柔らかい女性の声がして顔を向けると、先ほどまで誰も座っていなかったはずのベンチに、一人の和服姿の老婆がちょこんと腰かけていたのである。若草色のその和服はとても上品で、散らされた白い花の絵がまるで雪片のようで綺麗だった。
その老婆の足元には一匹の白い毛並みの大きな犬……? が伏せており、ちらりと奈央の顔を見やると、「ふんっ」と鼻を鳴らして気に入らなそうな態度で視線を逸らした。犬にしては鼻先が妙にほっそりしている。その姿はまるで狐のようだが奈央の知るそれよりも一回り大きく見えるし、まさかこんな所に居るはずがない。しかし、その獣臭にはどこか覚えがあった。あれは確か昨日、放課後に会った宮野首玲奈が去った後に――
「――待っていたの。ここに、貴女が来るのを」
「……待っていた? 私を?」
老婆はにっこりと微笑むと、隣の空いた場所をとんとん、と軽く叩いて示した。恐らく、ここに座れという意味だろう。小母を放って大樹を探しに来たというのに、まさかこんな所で見知らぬ老婆の相手などしている場合ではない。おばあさんには悪いけれど、ここは適当に断って――そう、思ったけれど。
奈央は気づくと、何故か老婆の隣に腰を下ろしていた。
「――えっ」
どうして、と奈央は不審に思いつつ、老婆の顔を覗き見る。老婆は相も変わらず優し気な微笑みを浮かべており、その体からは何とも言えない良い香りが漂い奈央の鼻腔をくすぐった。
「この子がね、教えてくれたの。貴女が、あの子に関わってしまったって」
――この子? ――貴女? ――あの子?
眉を潜める奈央に、老婆はちょいちょい、と白い犬を指で示した。その意味がまるで解らず、奈央は更に首を捻る。
いったいこの老婆は、先ほどから何を言っているのだろうか。
「あと、うちの孫も随分心配していたから、放っておけなくて」
孫? 誰の事? と老婆の顔をじろじろ見ていると、そこにぼんやりと見覚えのある顔が浮かんできた。けれどそれが誰なのか、いっこうに思い出すことができない。すごく身近にいる人。けれど、その顔は常には見えなくて……
「宮野首玲奈。あたしの可愛い孫なの。いつもお世話になっております」
そう言って頭を下げる老婆に、奈央は「あぁっ!」と声を上げ、慌てたように頭を下げた。
「こ、こちらこそ、お世話になってます……!」
そうか、宮野首さんのお婆さんだったのか。確かに雰囲気がそっくりだ。あのどこかのほほんとした雰囲気と良い、人の良さそうな顔と良い、瓜二つじゃないか。
でも、と奈央は顔を上げながら、もう一度首を傾げた。そのお婆さんが、どうして私を待っていたのだろうか?
宮野首の祖母はにこにこと微笑みながらすっと視線を前に戻すと、脇に伏せる犬の頭を撫でながら「さて、どこから話したらいいかしら……」と小さく口にした。
それに答えるように「ふんっ」と鼻を鳴らす白毛の犬。
宮野首の祖母は一つ小さく頷くと、
「――そうね。そこからにしましょうか」
と奈央の方に顔を向けた。
「オニーサンのことは、大丈夫よ」
「……オニーサン?」
いったい、何の話?
「ほら、一緒に住んでいたのでしょう?」
一緒に住んでいたオニーサン。その言葉に、奈央の脳裏に響紀の姿が浮かぶ。
これまで一度もそんなふうに思ったことはなかったが、なるほど、確かに傍から見れば響紀とは兄妹のようなものかも知れない。実際、遠縁とは言え、同じ高祖父の血を引く者同士だ。従兄妹同士ほどではないにしても、どこかしら似ているところもあるかもしれない。
けど、違う。そうじゃない。そういうことじゃなくて。
「お兄さんって、響紀の事ですよね? 大丈夫って、どういうこと? どうして解るんです? ちゃんと生きてるんですよね? 今どこにいるんです? なんでうちに帰ってこないの?」
気付くと一気に捲し立てるように、奈央は口にしていた。
心臓がどくどくと早鐘を打ち、手はわなわなと震えている。うまく息もできず、はぁはぁと呼吸も荒かった。
じっと見据える先の宮野首の祖母はしかし、僅かに首を横に振りながら、「ごめんなさい」と何故か小さく謝った。
「あまり詳しいことは、今、私の口からは言えないの。お兄さんは――響紀くんは、あの子から貴女や家族を守る為に、必死になって動いている。私が言えるのは、ただそれだけ」
「――なんで? それ、どういう意味なんですか? どうして言えないの? だって小母さん、響紀のことが心配で心配で、それが原因で階段から落ちて怪我までして――おまけに、もう帰ってこないかもしれないって泣いてて……!」
思わず目に涙を浮かべながら、奈央は叫んでいた。
小母のあんな悲しそうな姿を目の当たりにして、あまりにも可哀そうで。何とかしてあげられるのなら、何とかしてあげたい。響紀が無事なのなら、とっ捕まえて引き摺ってでも小母の下へ連れて行ってやりたかった。
けれど、宮野首の祖母はやはり小さく首を横に振るばかりで、それ以上は何も教えてはくれなかった。
昨日の玲奈と一緒だ。この婆さんも、はっきりものを言わない。はぐらかすような物言いで、大事なところは全部隠して。そんなので何を伝えようとしているのか解るはずもないじゃないか。そんな曖昧な言動から、いったい何を汲み取れというのか。
次第に込み上げてくる怒りを感じながら、奈央は拳を強く握り締めた。
「……いい加減にしてよ! あんたも宮野首さんも、私に何が言いたいわけ? はっきり伝えられないんなら、そんなの言うだけ無駄じゃない! 言いたいことがあるんなら、はっきり言ってよ! どうせあの喪服の女の子が関わってるんでしょっ? あいつは何っ? いったいあの子は何者なのっ? 何が目的っ? 昨日の夜に襲ってきた化け物も、あの子が――」
「そうよ」
遮るように言って、宮野首の祖母は不意に、奈央の方に顔を向けた。
「――だって、あの子の狙いは、貴女なんだもの」