えっ、と木村が声に出すのと同時に、奈央の右腕に何者かが触れる感触があった。
奈央は大きく叫び、咄嗟にそれを振り解こうと右腕を上げた。その瞬間、見えない何かに手首を掴まれ、木村から強引に引き剥がされる。
「あ、相原さんっ!」
木村は驚きの声を上げ、手を伸ばして奈央の手を掴もうとするも届かない。
まるで操り人形のように見えない何かに持ち上げられた奈央の身体は自由を失い、手足を動かすことすらままならななかった。
「嫌! 離して!」と奈央は叫ぶ。「助けて! 木村くん!」
「奈央!」
木村は床を蹴り、奈央の身体に飛び込もうとして唐突にそれを阻まれた。見えない壁にぶち当たり、「あっ!」と倒れ床の上を転がる。
その間、奈央の身体には蛇のような腕や手が這うように回されていった。それらは明らかに一人や二人のものではなくて、もっと沢山の男の手のようだった。
それらが奈央の顔や腕や胸、腹や尻、太腿、脛、そして股の内を無遠慮に蹂躙せんと蠢いた。
突然、二階の灯りが激しく明滅し、それらの影が浮かび上がる。
「……っ!」
その姿に、二人は絶句した。
まるで腐敗した団子か何かの様に集合体と化したそれらは、下卑た嗤いを浮かべながら、奈央の身体を羽交い締めにしていたのだ。
複数の頭が至る所から飛び出し、手足が伸び、それらが思い思いに蠢きながら、耐え難い臭気を放っていた。
木村はそれを見て慄き、けれど、目に涙を浮かべながら必死に抵抗を試みる奈央の姿に、歯を食いしばった。
「嫌、やめて、やめて……!」
奈央は股の内に侵入し、今まさにその奥を貫こうとする何かの感触に戦慄した。得体の知れない何かに犯される恐怖に絶望した。
木村は腹の底から「わああぁっ!!」と叫び、再びそれらに向かって駆け出す。何とか奈央の身体にしがみつき、その腕や手を引き剥がそうとするも、そのうちの一本の腕が伸び、木村の首を掴みぎりぎりと締め上げた。
木村は必死にその腕を振り払おうと暴れたが、しかし、徐々に身体が持ち上げられ、床から爪先が浮いていく。
その様子を、それらはケラケラと嘲り嗤った。
白目を剥き、涎を垂らし、次第に抵抗する力を失っていく木村の姿を、奈央はただ見ていることしかできない。
「やめて…… やめて…… 死んじゃう、木村くんが死んじゃう…… やめて、やめて……!」
藻掻くことを諦めた木村の手がだらりと垂れた瞬間、奈央は声を限りに絶叫した。
その途端、奈央の叫びに呼応するかのように、家全体が激しく揺れた。まるで地震が起きたかのような大きな揺れに、それらも動揺したのかぴたりと動きを止める。
ぱしんっ、ぱしんっと何かが爆ぜる音が連続して聞こえたかと思うと、次の瞬間、獣のような咆哮が響き渡り、何かに吹き飛ばされたようにそれらはバラバラに弾け飛んだ。
解放された奈央と木村の身体が、どさりと床の上に力無く崩れ落ちる。
やがて地震は収まり、爆ぜる音も咆哮も聞こえなくなった。
何が起こったのか解らないまま頭をもたげれば、バラバラになった黒い影が這うように階下へと逃げ去る様子が目に飛び込んだ。
訳もわからず狼狽し、けれど目の前に倒れる木村を放って置けなくて、奈央は木村の身体を揺すり、「木村くん、木村くん!」と必死に声を上げた。
木村はえずきながら自力で上半身を起こすと、赤い顔で苦しそうに口を開く。
「……だ、大丈夫……奈央は?」
「大丈夫、大丈夫だよ……!」
言って奈央は木村の身体をぎゅっと抱き締めた。木村が生きていること、そして自身の無事を確かめ、涙が溢れた。
「今のは、何……?」
木村の問いに、しかし奈央は首を横に激しく振り、「わからない、わからないの……!」と咽び泣くことしかできなかった。
今まで姿の見えなかったものが突然見えたかと思えば、それは明らかにに異形の存在で、あのようなものが自分を付け狙い、闇の中に潜んでいたのだという事実に奈央は戦慄した。
臭気は今だ二人の周囲に立ちこめていたが、次第にそれも薄くなり、遂には普段と同じ家の匂いに戻っていく。
それでも奈央は木村の身体に抱き付いたまま、しばらくそのまま胸に顔を埋めていた。
木村もそんな奈央を抱きしめたまま、それ以上は何も言わなかった。ただ安寧を求めるように、互いの心臓の音に耳を傾けた。