6
家の中はひっそりと静まり返り、至る所に闇が潜んでいた。空気は冷えて重たく、どこか臭気を孕んでいるように感じ、それはとても不気味だった。
この何処かに、目に見えないアレらがいる。そう思うと恐ろしくて、奈央は木村の手をぎゅっと握り締めた。
「……どうしたの?」
不思議そうに問うてくる木村に、奈央は首を横に振りつつ、「何でもない」と小さく答え手を離した。玄関と廊下の灯りをつけ、「上がって」と木村を中に招き入れる。居間に通し、そこに座るよう木村に言ってから、奈央は居間と台所の電気をつけた。
「コーヒーで良い?」
奈央は鞄を脇に置きながら、木村に訊いた。
「あ、うん。ありがとう」
きょろきょろと居間の中を伺いながら、木村はそう返事した。
奈央は台所に立つと慣れた手つきでコーヒーの準備を始める。家の中に家族以外の者が居ることに違和感を覚えつつ、けれど嫌な気はまるでしなかった。こうして誰かが傍に居るだけで何だか安心できた。
先程バスの中から見えた喪服少女がただの見間違いだったのかどうか、奈央は木村にその話をしようか迷ったが、結局何も話さなかった。そんな話をして、木村にこれ以上の負担を掛けたくなかったのだ。ただ、傍にいてくれれば良い。それだけで、私は安心できる。後のことは、私自身が何とかしないと。そう思った。
二人分のコーヒーが出来上がり、奈央は木村の座る居間にそれらを運んだ。
「あ、ありがとう」
言って木村はにっこり笑う。
奈央はそんな木村の右隣に腰を下ろした。机を挟んだ正面に見える窓には薄闇が広がり、相変わらずの雨が降り続けてザァザァと大きな音が鳴り響いている。奈央はそれを眺めながら、ふぅっと溜息を吐くとコーヒーカップに口をつけた。その苦味に思わず眉間に皺を寄せ、砂糖もミルクも入れ忘れていたことに気が付いた。
しまった、木村くんのも何も入れてない、と思いながら木村の方に顔を向ければ、木村はそのブラックコーヒーを平然とした面持ちで口をつけながら、ぼんやりと窓の外に顔を向けている。
「……苦くないの?」
思わず尋ねた奈央に、木村は「ん?」と首を傾げた。
「大丈夫だよ? いつも何も入れてないから」
「そうなんだ」と奈央は自分のカップに目をやり、「凄いね。なんか、大人って感じ」
それに対して木村は「そんなことないよ」と小さく笑った。
「味覚なんて、人それぞれだと思うよ。僕がたまたま苦いのが好きなだけでさ。相原さんは、苦いのは苦手?」
「うん、苦手」奈央も小さく笑い、「実はコーヒーもあんまり好きじゃないんだ。良かったら、私のも飲む?」
「ああ、じゃあ、貰うよ」
と奈央の差し出したカップを受け取ろうとしたところで木村の動きが一瞬止まった。それから改めてカップを手にすると、それを机の上に置く。その様子を見て、奈央はもしかして、と口許を緩ませながら、
「私が口をつけたから?」
木村は耳まで顔を真っ赤に染め、「えっ」と奈央に振り向く。
「私が口をつけたから、それが気になったんでしょ?」
「あ、いや……」と木村は身体を縮こまらせながら、「だって、ほら……」
その様子が何だかひどく可笑しくて、可愛らしくて、奈央は思わず笑っていた。こんなに楽しいと思ったのは、いったいいつ振りだろうか。
「じゃあ、こうすれば良い?」
奈央は言って木村のカップに手を伸ばすと、それを一口飲んで見せた。途端に木村は目を丸くして口をぽかんと開ける。
「ほら、これでおあいこでしょ? 気にし過ぎだよ、木村くんは」
言って奈央はそのカップを木村に手渡しながら、もう一度笑った。
木村は今にも煙が出てきそうな程に顔を紅潮させ、奈央の顔を直視出来ないとばかりに窓の外に顔を向けて、
「あ、あ、ほらっ! 車の音がしたよ。 お父さん……じゃないか、小父さん、帰ってきたんじゃないの?」
言われて耳を傾けてみれば、確かに外からエンジン音が聞こえてくる。けれど小父が帰ってくる時間にしては早過ぎて、奈央は首を傾げながら立ち上がり、窓の方へ歩み寄った。
玄関前の方を覗き見れば、門扉から少し離れた場所に一台の黒い車が停車している。奈央はその車に見覚えがあった。
暗がりの中でぼんやりと見える、その運転席と助手席に座る男女の姿に奈央は思わず慌ててカーテンを閉める。
「……どうしたの? 違った?」
木村のその問いに、しかし奈央は答えられなかった。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなっていく。視界がボヤけ、奈央は掴んだカーテンをぎゅっと握り締め、絶望に打ち震えた。
頭の中に、あの母の言葉が蘇る。
『また近いうちに改めて迎えに来るから』
奈央はそれを拒むように、激しく頭を振った。
そんな、どうして今なの?
奈央は目を見張り、戦慄く手をそのままに、全身から冷や汗が噴き出るのを感じた。
いや、今だからこそ、なのだ。
小母は居ない。響紀も出て行ったきり戻ってこない。小父は夜遅くまで仕事で帰ってこない。私がこの家に独りだということを、あの女は何らかの手段を使って知っていたはずだ。家の者が居ないこの時を狙って現れたに違いない。
何の為に?
そう自分に問いかけること自体が、馬鹿げていた。
そんなのは決まっている。母は私を迎えに――いや、私を連れ去りに来たのだ。連れ去って、私の身体を自身の欲望の為に利用しようとしているのだ。
それがどういうやり方かなんて奈央には解らないし、解りたくもなかった。ただ兎に角、娘の貞操を蔑ろにし、辱め、儲けようとしていることは間違いない。
ウリだの何だのと言う言葉を時折テレビや何かで目にするけれども、その危機が今この身に差し迫っているであろうことを予期し、奈央は木村に顔を向けた。
しかし、木村は何が起こっているのか解らず、戸惑いの表情を浮かべている。奈央が何に怯え、何を恐れているかを理解できず、首を傾げながら、
「……相原さん、大丈夫? どうしたの? 顔が真っ青だけど――」
けれどその問いに奈央は何も答えられなかった。
答える余裕なんて、今の奈央にはなかったのだ。
もしここであの運転席の男と共に母が侵入してきたとして、木村はどうなるのだろうか。木村はどうするのだろうか。私の為に抵抗してくれるだろうか。そう考えたけれど、木村のその如何にもインドア的な体型に、そんな期待はするだけ無駄だった。
なら、今の私にできることは?
母は私の貞操を狙っている。私の身体を私利私欲の為に求めている。
『アンタなら、稼ごうと思えば幾らでも稼げる。どう? いっそアタシと一緒に来ない? 学校なんて下らないもの辞めちゃってさ、アタシと楽しく暮らしましょうよ』
冗談じゃない、と奈央は憤った。誰がアンタと一緒に行くものか! アンタなんかと楽しく暮らせる訳、ないじゃない!
『あまり乱暴な男とは付き合わないことね。じゃないと、折角の綺麗な商品が台無しになっちゃうでしょ?』
綺麗な商品? 私が? 台無し?
奈央はふふっと小さく嗤った。
……そうか。
なら、綺麗でなくなればいいのだ。穢れてしまえばいいのだ。
もしここで無理矢理連れて行かれたとしても、一度汚れてしまえばそれだけ商品としての価値は下がるんじゃないか。そうなれば、少しでも母に仇を成す事が出来るんじゃないか。
奈央は木村に目をやり、にっこりと微笑んだ。
私の大好きな人に、私の綺麗をあげる。
そうして汚れて、母は歯痒い思いをするのだ。
余計なことをしてくれて、と。
それでいいじゃないか、と奈央はもう一度小さく嗤った。
このままタダで連れ去られたりなんか、してやるものか。
奈央は戸惑う木村のところまで歩み寄ると、その身体にすっと腕を伸ばし、ぎゅっと強く抱きしめた。
「あ、相原さんっ?」
裏返る木村の声を可愛いと思いながら、胸を通して伝わってくる木村の鼓動を愉しむ。それは余りにも早くて、リズミカルで、奈央が木村の耳に息を吹きかける度に彼の身体は小さく震えた。
呼吸が早まり、その身体が火照っていくのを感じながら、奈央は真正面から木村の顔を見つめる。視線が交わり、顔を背けようとした木村の顔を両手でそっと押さえるようにして、奈央は唇を重ねた。
ビクンっと木村の身体が小さく跳ね、眼が真ん丸く見開かれる。その動揺ぶりを愉しみながら、奈央は木村の口の中に舌を這わせた。
コーヒーの香りが口いっぱいに広がり、けれど嫌な気は全くしなかった。木村の舌を自ら迎えにいき、絡ませる。初めてのキスなのに、まるでその方法を最初から知っていたように、奈央は木村を激しく求めた。
木村もやがてそれに応えるように、ゆっくりと舌を絡ませてくる。奈央はそれが嬉しくて、気持ち良くて、自分の中から何かが溢れ出てくるのを感じながら、木村の手をぎゅっと握り締め、互いの指を絡ませた。触れ合う身体の、木村の正直な反応に奈央は満足しつつ、それでも執拗に唇を求める。
このまま一つになりたかった。互いに溶け合い、融合し、全てを忘れてしまいたかった。
頭が痺れてくる。何も考えられない。そこには欲望しかなく、今や懸念すべきことは何一つなかった。
あるのは心と肉体と繋がり。それ以外は何も必要ではなかった。
奈央はかつてこれほどまでに満たされた感情を知らなかった。
いや、或いはこれから私はもっと満たされるのかもしれない。
彼の全てを受け入れ、満たされ、そうして解放されるのだ。
……解放?
『アタシはね、アタシが楽しければそれで良いの。気持ちよければそれで良いの。アンタだってその気持ち、解るでしょ?』
解らない、と思っていた。母の気持ちなんて、解りたくもない、はずだった。
『解るわよ。 ――だって、アンタはアタシの娘なんだから』
嗤えて仕方がなかった。
何だ、結局私は、あの女の娘なんだ。
奈央はすっと目を開けた。木村は奈央の求めに応じ、今も押し倒さんばかりの勢いで舌を絡めてくる。
『男が若い女に対して抱く感情なんて決まってるじゃない』
全くその通りだ。母親の言う事の方が、正しかった。
何故か眼が熱かった。何かが溢れてきて、止まらなかった。
嬉しい? 悲しい? 虚しい?
何の感情か解らず、けれど奈央にはもう抗う気力なんて無くて。
その時、うっすらと開いた視線の先、丁度木村の背後に見える廊下の影に、奈央はぼんやりと誰かが立っていることに気が付いた。
あぁ、母親が迎えに来たのだ、と奈央は思った。
私も結局、そちら側の人間だったよ、と。
けれど、その姿が明瞭になったとき、思わず奈央は目を見開いた。
「―――っ!」
そこには、真顔でじっと二人を見つめる、響紀の姿があったのだ。