奈央は下着や衣服を整えると、開けっ放しになっていた冷蔵庫を閉じた。最早これから晩御飯を作ろうという気にもなれず、かと言って自室に戻ることもままならなくて、とりあえず落ち着いて考えようとお茶の準備を始めた。お湯を沸かし、急須に多めに茶葉を入れる。それから自分の湯飲みを戸棚から取り出し、急須を回しながらゆっくりとお茶を注いだ。
食卓の椅子に座る際には恐る恐るだが念入りにその下を確認し、なるべく机から離れて腰を下ろした。もし何かあってもすぐに動けるようにしておきたかったのだ。
奈央はゆっくりと湯飲みに口をつけると、香りと共にお茶を啜った。芳ばしい香りが口の中に広がり、ほっと一息吐く。
先ほどのあれは、いったい何だったのだろう。奈央は目を伏せるようにしながら考えた。
冷蔵庫を開けた時、確かに私は背後に誰かの気配を感じた。そいつは後ろから手を伸ばしてきて、私の胸を弄った。着衣の乱れや胸に残った感触から、それはまず間違いない。けれど、後ろを振り向いたときにはすでにそこには誰の姿も見えなくて。あの一瞬で姿をくらますなんてこと、普通の人間にできるとは到底思えなかった。
だとしたら、いったいその存在は何?
まさか、幽霊なんてものが本当にいるとでもいうの?
奈央は霊や物の怪といった類の存在を信じてなどいなかった。例えそんな話を耳にしても、そんなもの居るはずがないと内心鼻で笑っていた。この世の不可思議な出来事は、所詮それを体験した者の無知が作り出した幻影でしかないとすら考えていた。何よりその手の話は当事者の証言しか残されておらず、第三者の公平な視点が介在していない以上、信用に足る情報とは到底思えなかったのだ。
けれど、実際こうして説明のできない体験をしてしまうと、その考えが激しく揺らいだ。何より、と奈央は右袖を捲り上げ、そこに残された手形の痕を見つめる。この痕がその証拠であり、間違いなくあの時あそこには誰も居なかったことを、奈央は自分の目で確認しているのだ。
奈央は最早、見えない何かの存在を認めざるを得ない状況にあった。
でも、なんで私なんだろう。
奈央は何より、そこが気になって仕方がなかった。これまで感じた恐怖に身の毛もよ立ったけれど、その疑問の方が今は強く心に引っかかったのだ。意外に自分は強い人間なんだな、と我ながら奈央は驚嘆する。癪ではあるが、あの傲慢な母親に似てただでは折れない性格らしい。
どうして私がこんな目に遭わなければならないのだろう。
どうして私を狙っているのだろう。
私が何かしたとでもいうのだろうか。
そう疑問に感じた時、ふと昨日、図書室で宮野首から言われた言葉を思い出した。
――あの家には、絶対に近づかないでください。
あの家、とはあの時の話の流れから、間違いなく喪服少女が住んでいると噂されているあの廃墟のような家の事だろう。矢野の話では誰も住んでいないらしいという事だったけれど、もし住んでいるのが人ではなく、それ以外の“何か”なのだとしたら?
その考えに至った瞬間、奈央は思わず身を震わせた。まさかね、と思う反面、もしかしたらこの右腕の手形の痕と先ほどの男には何らかの関連性があるんじゃないか。更に言えばそこにはあの喪服少女も何らかの形で関わっているんじゃないか、もしかしたら夢に出てきた響紀も――けれどそこまで考えて、奈央は首を横に振った。
考え過ぎだ。何一つ証拠なんてない。ただ私がそこに関連性を見出そうとこじつけていっただけで、きっと個別で見れば全く別のただの偶然のようにも思えてならなかった。
響紀が出て行ったことをきっかけとして、ナーバスになった私が見えないものを見た、感じたと思い込むようになってしまっただけかもしれないじゃないか。
でも、もし本当に関連性があるのだとしたら――?
思考が堂々巡りを始め、奈央はもう一度お茶を啜った。深い溜息を一つ吐き、頭を振る。
これ以上深く考えるのはよそう。頭が混乱する。落ち着いて考えるはずが、返って頭の中が混乱してしまったようだ。今はとりあえず、何も考えないようにしよう。
そうして三口目のお茶を啜ったとき、ガチャリと玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた。
小母が帰ってきたのだろうか。そう思っていると、台所に入ってきたのは小母ではなく、小父の方だった。
「あぁ、奈央ちゃん、起きてたのか」小父は柔和な笑みを浮かべ、けれどどこか慌てた様子で通勤鞄を下ろすとネクタイを外しながら、「文子から風邪とは聞いていたけど、もう起きて大丈夫なのか?」
「うん」と奈央は頷き、「ついさっきまで寝てたから……」
「そうか。文子にはもう、電話したのか?」
「……小母さんに?」
首を傾げる奈央を見て、小父は「なんだ、電話に気づいてなかったのか」と言って台所から出て廊下を挟んだ向かい側にある寝室のドアを開け、「寝てたんなら仕方がないか」とごそごそと何かの準備を始めながら言った。
「文子、仕事先で階段から転げ落ちて骨折したんだ。今、病院で治療してる。入院することになったんだ」
小父のその言葉に、奈央は「えっ」と驚きの声を上げた。
小母さんが骨折? 入院? なんで、どうして?
奈央は思わず椅子から立ち上がり、小父の所へ駆け寄った。小母の衣服を鞄に詰め込もうとしている小父の背中に、奈央は声を掛ける。
「小母さん、大丈夫なの?」
「そんなに酷くはないみたいだから、たぶん大丈夫だろう」と小父は答え、引き出しを開けて首を傾げた。「奈央ちゃん、すまないが何が必要か見てくれないか? どうも泊まりの女性に必要なものが私には解らなくてな」
「……あ、うん。……解った」
奈央は頷き、鞄の中身を確かめながら足りない下着や衣服を詰めていった。その間、小父は洗面所に行き歯ブラシやコップの準備をする。そんな小父に、奈央は尋ねた。
「どれくらい入院するの?」
「一週間は掛からないらしいけど、まだよく判らないな。元々骨が弱かったみたいだし、詳しい話を聞いていないからね」
そう、と奈央は返事して、とりあえず三日分の着替えを揃えた。これくらいあれば十分だろう。足りなければ後で私がお見舞いに行った時に、汚れた衣服と取り替えればいいだけだ。最低限必要な物を詰め込み、奈央は鞄を閉じた。
「ありがとう、奈央ちゃん」
小父は言ってそれを肩に掛けると玄関に向かう。奈央もその後を追った。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」
そう言って奈央に振り向いた小父に、奈央は目を丸くしながら答えた。
「えっ、私も行く」
それに対して、小父は眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「何を言ってるんだ。奈央ちゃんは風邪を引いているんだろう? そんな訳にはいかないよ。酷くなったらどうするんだ。今日の所は早めに寝て、お見舞いは風邪を治してからにしなさい」
「でも……」
真っ先に頭に過ぎったのは、先ほどの姿の見えない誰かの事だった。気丈に振る舞ってはいるけれど、全く気にしていない訳ではない。ましてアレが再び現れないとは限らないのだ。なるべくなら、誰かと一緒に居たかった。
だからこそ奈央は小父にその事を説明しようと口を開きかけ……けれどすぐにそれを辞めた。
当事者でない人間に、そんな不可思議な現象を上手く説明できる自信が奈央には無かったのである。感情の赴くまま話したところで、それを理解してもらえるだなんて思えなかった。きっと気のせいだ、と一笑に付されるのがオチだ。
「ん? どうした? 何か気になることでもあるのか?」
小父の問いに、奈央は「ううん、何でもない」と首を横に振る。
「じゃあ、私は行くよ。戸締りはしっかりするように。そんなに遅くはならないよう帰ってくるつもりだけど、何かあったら電話しなさい。すぐに帰るから。いいね?」
「……はい」
小父は奈央が頷くのを確認すると微笑み、急ぐように家から出て行った。車のエンジン音が聞こえ、その音が遠ざかっていくまで奈央は玄関に立ち尽くす。
静まり返った家の中で、奈央は一気に押し寄せてきた不安の波にその身を攫われてしまいそうだった。
たぶん、小父が帰ってくるまでは、それでもまだ「そのうち小母も小父も帰ってくる」という妙な安心感の中にあったのだ。だからこそ、あんな不可思議な現象があったにも関わらず平然とお茶なんて飲んでいられたのだという事に、今更のように奈央は気付いた。
小母はしばらく入院するという。小父はまたすぐに帰って来るのだろうけれど、そもそも仕事の都合で普段から帰宅は遅くなりがちだ。つまり、この家に独りで居る時間が急に増えてしまったということになる。それが言い知れない不安となって奈央を襲った。
しんと静まり返った家の中は、まるであの廃屋と同じくらいに空虚で生活感を感じられなかった。この世界に独り取り残されてしまったのではないかと錯覚してしまいそうなほど、そこには寂しさが満ち満ちている。
奈央はその寂しさを見つめ、戦慄した。
ピチョンっと台所から水が滴り落ちる音がして、身体が震え上がる。
その虚ろな家の中で、奈央はただ、孤独に飲み込まれていくのだった。