響紀が須山庭園に辿り着いた頃には陽はすでに西に傾き、橙色の光が辺りを美しく照らし出していた。響紀は社用車を須山庭園前の道路を挟んだ向かい側のコインパーキングに停め、足早に事務所に向かった。引き戸の入り口に立ち、ゆっくりと開ける。
「こんにちはぁ」と響紀はなるべく明るく声を出し、「近くに寄ったんで挨拶にきましたぁ」
その声に、事務員や従業員がぱらぱらと顔をあげた。
「おう、ご苦労さん」
そう声を返してきたのは須山社長だった。でっぷりとした腹が今にもはち切れんばかりに着ている作業服を押し広げている。これでは仕事などろくに出来ないだろう。きっと仕事は従業員に任せ、自身はいつものように事務所でダラダラと時間を潰しているのだ。
「お疲れさまです。今何か必要なものありますか? ついでなんで、注文あれば聞いて帰ろうと思いまして」
「要るもんか? ……おい、今なんか要るもんあるか?」
須山の声に、事務員である須山の妻は首を横に振った。
「今は特に無いわねぇ。ああ、でも、そう言えば、従業員が何人か扇風機のついた服を欲しがってたわね。あれってどうなの? 本当に涼しいの?」
問われて響紀は首を捻りながら、
「涼しいっちゃ涼しいんですけどね、何せバッテリーが弱くて一個だと午前中しかもたないんですよ。それに一着辺りの単価が高いんで、従業員さん全員分揃えるとなると、見積もりだけで相当な額いきますよ」
「いくらくらいかしら?」
「ワンセット二万くらいとして、洗い替えも含めたら、須山庭園さん全員分で二十万は軽く超えるでしょうね」
「二十万! 制服以外にも二十万はちょっと考えるわね……」
「まあ、熱中症で倒れるよりはマシかと。それと、来年辺りからは他のメーカーも似たようなの作り始めるでしょうから、次第に安くはなると思いますよ」
「今、安くならんのか?」
須山社長のにやりとした意地悪い笑みに対し、響紀は愛想笑いを浮かべながら、
「最大限まで安くしての見積もりですからねぇ」
「ああ、無理無理」須山は手と頭を同時に振った。「なら、今は要らんな。暑けりゃあ、休み休みやりゃぁ良いだけよ」
と、そこでガラリと事務所の引き戸が開け放たれ、一同が目を向けると白髪の老人が今まさに事務所に入ってくるところだった。
「……戻ったぞ」
「おう、谷さん。ご苦労さん」
響紀は待ってましたとばかりに破顔し、仏頂面の谷に「お疲れさまです」と声をかけた。
「谷さん、今日の朝方、峠下の廃墟みたいな家で剪定作業してたでしょ」
谷は怪訝そうな顔を響紀に向ける。
「……だったらどうした」
「いや、昨日あそこに住んでるって女性に会ったんすよ」と響紀はにやにやと締まらない笑みを浮かべながら、「それがあまりに美人で、もうちょい詳しく知りたいなぁって思って。谷さんなら詳しいかなって、実はそれも寄らせてもらった理由の一つなんですけどね」
そこまで言って、響紀は谷の表情が僅かに強張ったのに気がついた。こちらを睨みつけるような強い視線。しばらくの間、互いの視線が交わる。やがて谷は険しい表情でゆっくりと口を開いた。
「……あの家にゃぁ、誰も住んどらん。ただの空き家じゃ」
「……はい?」と響紀は谷の思わぬ返答に戸惑い、眉間に皺を寄せる。「いや、そんなはずは……」
「誰かが住んでるって噂は聞いた事あるけど、でもそんなはずないのよね」と代わりに答えたのは須山の妻だった。「あそこの大家さん、あの家を貸しもせず、住みもせず、だからって壊しもしないでただ定期的に庭の手入れだけしてるのよね。谷さん、間違いなく、あそこの家には誰も住んでいないのよね?」
「住んどらん」
谷は断言し、深く頷いた。
「そんな、でも」と響紀は納得できず、尚も食い下がる「俺は確かに昨日あそこに女性が入っていくのを見たんです。それだけじゃない。昨日、俺は彼女を峠下のコンビニから、あの家まで送ってあげたんですよ? 間違いなく、あの女性が廃墟みたいなあの家に入って行ったのをこの目で見たんですから」
「……夢でも見たんじゃないか?」
言って肩をすくめる谷に、響紀はどういうことだろうと戸惑いを隠せなかった。
「いや、だって、そんなはずは……」
「そう言えば、去年ユウヤがトンだのもあの家に一緒に行った時じゃなかったか?」そう口を挟んできたのは須山だった。「あれっきり行方も知れんが、今頃どこで何をやってんだろうな」
そんな須山に、谷は視線を落としながら首を横に振る。
「あいつは……ユウヤは逃げたりなんぞしとらん。そんなへたれじゃない。あいつは……連れていかれたんじゃ」
その言葉に、響紀は口を開かずにはいられなかった。
「連れていかれた? 誰に?」
しかし谷は答えなかった。ただ黙ったまま響紀に一瞥をくれると、機嫌悪そうにふんっと鼻を鳴らしてくるりと背を向け、再び事務所から出て行ってしまった。
「……何なんですかね、いったい」
響紀の問いに、須山はただ肩を竦め、首を左右に振るだけだった。