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第2話

 あれは今から十年ほど前、彼が高校二年を迎えて間もない梅雨時期の事だった。この廃屋に住んでいたとされる少女に心惹かれた同級生が、ある日忽然と姿を消した。


 当時この辺りに住んでいた子ども達の間では喪服姿の少女の事が半ば都市伝説のように語られていた時期があった。事実彼自身もこの峠を自転車に乗って行き来していた時に何度か目にした事があり、夏でも冬でも同じ黒衣を着ていたことから『あれは自殺した両親を弔う為に一年中喪服を着ているのだ』と噂されていた。真実はどうか知らない。ただ黒いだけの洋服だったのかも知れない。兎に角いつも同じ黒衣に身を包んでいたのは確かだった。


 ある時彼がクラスで喪服少女を話題にして盛り上がっていた時、ある一人の友人に少女に話しかけてみるようけしかけたことがあった。その友人は最初こそ嫌がっていたが、結局喪服少女に声を掛けた。本当は冗談のつもりだった。何しろ噂の中には『彼女に関わると行方不明になる』などという根拠のない恐ろしげな話もあり、まさか本当にその友人が喪服少女に声を掛けるだなんて思いもしなかったのだ。


 その友人は喪服少女と関わっていくうち、徐々に様子がおかしくなっていった。まるで彼女に心だけでなく魂まで奪われたかの如く、毎日毎日彼女に会うようになっていったのだ。それはまるで恋人同士になったかのような親密具合だったと彼は記憶している。彼はその様子を見ているうちに、段々と友人の事が心配になっていった。これは何かがおかしい、まるで悪魔に魅入られているようだと思った彼はある日、その友人に「深入りすると行方不明になるぞ」と忠告した。けれどその言葉は、ただ友人を逆上させただけだった。


 ……それから数日後のある日、友人は学校に来なくなった。


 最初のうちこそ担任は病欠と言っていたが、クラスの中では喪服少女に消されたのだという噂で持ちきりになった。やがて友人が行方不明になっている事が公になり、警察から情報提供を求められた段になって彼と一部のクラスメイトは友人と喪服少女の事を警察に訴えた。けれど、そんな話をまともに聞き入れてくれる警察などまるで居なかった。


 そんな中、一人の刑事が皆の訴えに答えて喪服少女について調べてくれた。四十八願よいならと名乗った刑事からはしかし、そもそも喪服少女など存在しないという理解し難い事実を提示されただけだった。複数の刑事、警官で辺り一帯の家々を巡り情報を集めていったが、誰もそんな少女を見たことはないと言うのである。喪服少女に関する情報は他に無く、彼女の家と噂された廃屋は只の空き家という事が立証されただけだった。そんな筈はないと彼も他の友人たちも四十八願に訴えたが、しかしそれ以上は一蹴され相手にしてもらえなかった。


 そう、その家には誰も住んで居なかったのだ。そこには喪服少女など居らず、家の中はもぬけの殻、長い間住人の居ないただの空き家だったというのである。そして結局、事件は未解決のまま現在に至る。もちろん、友人の行方も判らないままだ。


 それ以来見かけなくなった、喪服少女と共に。





 ふと彼は彼女に顔を戻した。そこには微笑みを浮かべる喪服姿の“女”が、帽子を胸に抱えながら、膝をやや斜めに傾けてちょこんと座っていた。


 いったい、この女の歳はいくつなのだろう。十年前のこの女は、どんな姿をしていたのだろう。そして、かつて噂された喪服少女がもし人並みに生きて、歳を重ねていたとしたら。


 その途端、彼の背筋をただならぬ怖気が駆け抜けていった。今、目の前にいる女は、果たして何者であるのか。どうしてこんな廃屋に住んでいるのか。

「宜しければ」と女は微笑みを崩さないまま、あの甘美な声で彼に言った。「中でお茶でも如何ですか?」


 彼は一瞬にして硬直し、女の顔をじっと見つめた。女は涼しげな笑みで彼の返答を待っている。その言葉に乗ってあの廃屋に入っていったら、果たして俺は帰って来られるのか。姿を消したあの友人のように、俺もまた行方不明になってしまうのではないのか。そんな思いが胸中を過ぎるものの、しかし“彼女”の色香にはその誘いをはっきりと断れなくさせる何かがあった。


 その時だった。ダッシュボードの上に投げ出していたスマホがけたたましい音を鳴り響かせたのだ。彼女はそれを見てすっとスマホに手を伸ばそうとしたが、彼は動物的勘と反射神経によって、それよりも早くスマホを掴み取ると、相手を確認する事なく通話ボタンをドラッグした。


「もしもし?」


 彼の言葉に返ってきたのは、会社の上司の声だった。いつになったら戻って来るのか、定時には報告の電話をするように言っていたはずだろうと小言を喰らった。


「すぐに帰ります」と彼は返事をして、通話を切った。 安堵のため息を大きく吐きながら、彼は仕方がないという意思表示を全身で表しつつ彼女に顔を向ける。


「――お誘いはとても嬉しいんですけど、上司から早く戻るよう言われまして、本当に残念なんですが、また今度ご一緒にお茶でも如何ですか、美味しい店を知っているので、そこででも」


 彼は捲し立てるように一気に口にすると、彼女の返答を待った。彼女の顔に一瞬影が差したのが見て取れたが、彼はそれ以上のことを口にはしなかった。


「……そうですか」


 彼女は小さな声で本当に残念そうに言うと顔を背け、助手席の扉をゆっくりと開いた。ロングスカートを滑らせながら左足を外に出して背を向けた時、もう一度彼女は彼に顔を向けてにこりと微笑む。


「――せめて、お名前だけでも宜しいですか?」


「え、あぁ」と彼は小さく頷き、「相原です。相原響紀」


「アイハラ、ヒビキ……」


 その瞬間、彼女の口許が釣り上がるようにして歪んだように響紀には見えた。それはまるでいつか目にした般若の面のそれのような怖ろしさを彷彿とさせるものだった。


 彼女はもう一度にこりと笑むと、

「じゃあ、またお会いした時にでも、ご一緒にお茶しましょうね」


 そう言って小さく右手を振って、車の外に出て行った。バタンと扉を閉め、スカートをなびかせながら車の前を通過すると、廃屋の方に向かって歩みを進める。廃屋の錆びた門の所で彼女はもう一度振り返ると、あの微笑みを浮かべながら親し気に手を振ってきた。響紀もそれに答えるように、手を振り返す。それを見た彼女の顔に、またしても般若のような笑みが差したような気がした。


 彼女はこちらに背を向けると門を開き、吸い込まれるようにして廃屋の中に姿を消した。


 響紀はそれを見届けると、急いでハンドルを切って車をUターンさせ、まるで逃げるようにして会社に向かった。


 兎にも角にも、一刻も早く、この場から立ち去りたかった。

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