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暗澹たる雲が空を覆い隠す。地に落ちた影はどこまでも広がり、ねっとりと肌にまとわりつく空気は重たく人々の上にのしかかった。世界が灰一色に包まれてしまったような中、ぱらぱらと零れ落ちるようにして降り始めた雨はやがてその勢いを徐々に増し、彼が煙草を買いに立ち寄ったコンビニから出た時にはすでにバケツの水をひっくり返したような猛烈な豪雨となって降り注いでいた。
彼は溜息を一つ吐くと肩を撫で下ろし、雨空に目をやった。墨を垂らしたような雲はどこまでも広がり、しばらくはこのまま激しい雨が振り続けるであろうことは明白だった。コンビニの前を行く中学生や小学生は傘の下、皆重たげな足取りで帰宅の途についている。彼もまた取引先の工務店に作業着を納品し終え、これから会社へ戻るところだった。
彼は駐車場に停めた社用車に足を向けようとして、ふとコンビニの軒先で黒い影を目の端に捉え、不意にそちらに目を向けた。果たしてそこに立って居たのは、黒一色の衣服に身を包んだ一人の若い女性だった。つばの広い帽子を被り、上半身は薄手のブラウスに下はひらひらと風になびくロングスカートで、跳ね返る雨に裾を濡らしながら静かに佇んでいた。彼女のこの装いは喪服だろうか。すぐ脇を走る道路を峠に向かって進むと、山の上には火葬場がある。きっと彼女はそこから来たか、或いは今からそちらへ向かうところなのだろう。傘を持っていないところを見ると雨宿りをしているのか、或いはここで迎えを待っているのか。
何れにせよ、彼女の何がそんなに彼を注目させたのかといえば、それはその輝くような肌の白さゆえだった。まるで今まで一度も陽の下に出たことがないかのように、彼女の肌は透き通るほど白かったのだ。その横顔は空を眺めるように僅かに傾き、これだけ蒸し暑いにも関わらずどこか涼しげだった。唇許には紅を差し、その頬もまた薄っすらと桃色に染まる。長く美しい黒髪は腰の辺りまで艶やかに流れ、ほんのりと甘い香りが辺りに漂っていた。歳は見た目からして二十代から三十代始めくらいだろうか。皺一つないその顔はどこまでも滑らかで美しかった。
何気なく彼女の連れを探したが、店の外にも中にもそれらしい人の姿は見当たらない。彼はすっと腕時計に目をやり、けれど時刻など確認することなく、もう一度彼女の方に視線を向けて……思わずどきりとした。
微笑みを湛えた彼女の顔が、すぐ目の前にあったのだ。
「すごい雨ですね」と彼女は口を開いた。「早く止んでくれると良いんですけど……」
落ち着いたその声は高くも低くもなく、とても優しい音となって彼の耳に甘く響いた。この世にこんなにも心地良い声音があろうとはこれまでの人生で一度も思ったことはない。もう一度雨空を仰ぎ見る彼女の横顔は端整で悍ましく、どこまでも美しく怖ろしかった。こんなにもじっと見つめてしまうのは彼女に惹かれてしまったからか、それとも畏怖するあまり眼を逸らすことが出来ないからか。いずれにせよ、彼女にはそうさせるだけの何かがあった。彼はその何かを確かに感じ取りながら、必死に返答すべき言葉を探す。「そうですね」という当たり障りのない答えから「梅雨というのは本当に辟易しますよね」そして或いは……
「お送りしましょうか?」
その言葉を口にした瞬間、我ながらあまりの図々しさに驚愕した。俺はいったい、何を血迷った事を口走ってしまったんだと自分を責めた。身体中が熱を帯び、それが蒸し暑い外気と相まって大量の汗を噴出させる。己の厚かましさを恥じ、見え透いた下心に嫌気がさした。けれど一度口にした言葉を無かったことにすることも出来なくて。さぞや怪しまれているに違いないと思いながら、彼は彼女の顔色を窺った。しかし、当の本人はまるでその言葉を待っていたかのように、輝く笑みを浮かべながらそっと、彼の手を握りしめてきた。
「よろしいんですか? ありがとうございます」
その慣れた手つきに彼は“どうやらこの女は男慣れしているようだ”と感じ僅かながら警戒したが、しかしここまでくると後にも引けなかった。多少何かあったとしても腕に覚えはあるし、何とかなるだろう。そう思うだけの単純さも彼は持ち合わせていたのである。
彼は雨の降りしきる中、店のすぐ前に停めた社用車まで駆け足で向かうと、助手席の扉を開け彼女を中に招き入れた。彼女は被っていた帽子を脱ぐと彼に向かって軽く会釈し、涼やかな表情でまるでそうするのが当たり前であるかのように、綺麗に足を曲げてちょこんと助手席に腰を下ろした。彼はゆっくりと扉を閉めると速足で運転席側に回り込み、逃げ込むようにして席に座ると勢いよく扉を閉めた。バンッ、という音と共に小さく車が左右に揺れる。エンジンをかけようとした所で不意に横から白い手が伸びてきた。その手には小さな花柄のハンカチが握られている。
「どうぞ、お使いください」
ハンカチからは微かに花の香りが漂い彼の鼻孔をくすぐった。彼は「どうも」と小さく礼を述べて濡れた肌を軽く拭くと、彼女の方に顔を向けた。ついつい渡されるままに受け取って使ってしまったが、まさかこのまま彼女に返すわけにもいかない。さて、どうしたものか、と悩んでいると、
「また、いずれお会いする時にでも返していただければ大丈夫ですよ」
「あぁ、すみません」と彼は曖昧な笑みを返した。「それじゃぁ、しばらくお借りします」
彼女はそんな彼の言葉に、満足そうに笑みを浮かべながら頷くのだった。
彼はハンカチをシャツの胸ポケットにしまい込むとエンジンをかけ、アクセルをゆっくりと踏んだ。静かな音と共に車は走り出し、コンビニの敷地を出ようとしたところで、
「あ、すみません、一番大切な事をお聞きし忘れてました」と彼はブレーキを踏み、助手席に顔を向け、「何処に向かいましょうか?」
「あぁ」と彼女は可愛らしい吐息のような声を漏らすと、「すぐ近くです。ご案内するので、まずは峠を登っていただけますか?」
彼は再びアクセルをゆっくりと踏み、コンビニの敷地から峠方面へ向かってハンドルを右に切った。まだ帰宅ラッシュには早いこともあって、行き交う小中学生に気をつけさえすればすんなりと右折することが出来た。あとは道なりに進み、峠を登る。
その間も雨は強く降りしきり、辺り一面が白いヴェールに覆われていった。響き渡る雨音は静かな車内で唯一のBGMとなる。数メートル先ですら見え辛い状況の中、彼は制限速度より抑えめにして車を走らせた。後ろから来る車影はなく、前を走る車の姿もない。対向車とすれ違うことすらないまま、ただ一台だけが峠道を登っていった。助手席に座る彼女は涼しげな表情で先を見据えたまま、一言も喋ろうとはしなかった。呼吸する音もこの豪雨に掻き消され聞こえてこず、身動き一つしないその姿はまるで出来の良い大きな人形にしか見えなかった。世の中にはラブドールと呼ばれるものが存在するらしいが、今の彼女は正にそれを彷彿とさせる、およそこの世の者とは思えない静と美を司っているのだった。
それにしても、と彼はハンドルを握り直しながら、土砂降りの雨に覆い隠された前方の道を見る。果たしてこの道はこんなに長かっただろうか。ほぼ毎日この峠道を行き来しているけれど、あまりにも登りが長過ぎる。峠はアルファベットのSを横にして反転させたような道成をしており、左側には立ち並ぶ民家、右側には新しく舗装された法面が見えるはずだった。それなのに、この豪雨の所為か、ぼんやりとした影のようにしか見えない。これ程の豪雨だと、またどこかで土砂崩れが起きてしまっていても不思議ではない。ここ数年、この時期になると毎度のようにゲリラ豪雨に見舞われ、どこかしらで土砂崩れや河川の氾濫が起こり、甚大な被害がもたらされている。これもまた異常気象によるものなのだろうか。しかし、こうも毎年のように異常気象だ何だと騒がれると、何が正常で何が異常なのか、曖昧模糊として彼には判らなかった。或いは異常である事が正常であるという結論に至ってしまうのではないかとすら思えてならない。
けれど今はそんな事を考えている場合ではない。それは何故か。もちろん、いつまで経っても峠の登りが終わらない事に、彼は焦りを覚え始めていたからである。何が異常かと問われれば、彼は間違いなく自身が置かれているこの状況だと答えるだろう。まるで同じ道を延々と走らされているかのような、そんな状態が続いている事に彼はようやく気が付いたのだ。そしてそれは、やがて畏れや恐怖に変わりつつあった。
彼は前方に顔を向けたまま、視界の隅で隣に座る“女”の姿を確認した。女は先ほどと全く同じ姿勢を保ったまま、じっと豪雨に閉ざされた視界の先に目を向けていた。その目元や口元には僅かながら怪しげな笑みを浮かべており、女のその妖艶な姿と溶け合い何とも表現し難い雰囲気を醸し出している。彼はそれが何故か怖ろしかった。まるで入ってはならない別の世界に足を踏み入れてしまったかのようで、空調が効いているはずの車内にあって、彼の身体は噴き出す汗にびっしょりと濡れ始めていた。この女を乗せてはいけなかったのではないか、無視して会社に戻るべきだったのではないか。そんな思いが頭を過ぎる。
もう一度、彼は女に意識を向けた。
「……どうかしましたか? 汗でびしょ濡れになっていますよ?」
身を乗り出すようにして、女の顔がすぐ近くに迫っていた。茶化すように、弄ぶように、その顔に笑みを浮かべながら。漂ってくる“彼女”の芳香に、彼の意識は途端に現実に引き戻された。そんな彼女から逃げるように視線を車外に向けると、雨脚は弱まり視界も普段のそれと変わらない程明瞭になっていた。あの豪雨がまるで幻であったかのように。
「あ、そこを右に曲がってください」
彼女はそのしなやかな指を伸ばし、右側に見える火葬場への裏道を示した。「はい」と彼は小さく答え、ハンドルを右に切る。生い茂る木々の中に隠れる廃屋を右に見ながら、その細い裏道を火葬場へ向けてアクセルを踏み込もうとしたところで。
「……ここです。私の家」
彼女の声に、彼は慌てたようにブレーキを踏んだ。タイヤが甲高い悲鳴を上げて止まり、車が前後に大きく揺れる。彼はハンドルを抱え込むような形で前のめりになりながら衝撃に耐え、それから彼女の方に顔を向けた。
「すみません。大丈夫ですか?」
「大丈夫です、ごめんなさい。先に言っておけば良かったですね」
彼女はぺこりと小さく首を垂れた。
「とんでもない」彼は答えながら左手を振り、「でも、ここは……」
呟くようにして彼が顔を向けた視線の先。そこには鬱蒼と生い茂った高い木々に覆われた、如何にも怪しげな佇まいの廃屋があった。およそ人が住んでいるとは到底思えない外観のその廃屋を目の当たりにして、彼は昔の出来事を思い出し、全身が総毛立つのを感じずには居られなかった。