薄暗い会議室には、何とも言えない沈黙が漂っていた。天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが微かな揺れを見せ、蝋燭の光が集まった魔王軍最高幹部四人の顔に影を落としていた。
「はぁああ……」
大悪魔ディアボロスは重厚な椅子にどっしりと腰を下ろし、片手で頬杖をつきながら大きな溜息をつく。その角張った顔には苛立ちが滲み出ている。彼の目の前に広がるテーブルの上には、今にも爆発しそうな紙束が山積みになっていた。
それらは全て勇者一行の侵攻に関する斥候達からの報告書だ。
半年前に王都を出立した勇者一行は着々と魔族領を踏破し、魔王城へと近づきつつある。
一刻も早く策を打ち、奴らを迎撃しなければならない。
ならない、の、だが――、
「……またお出かけという訳だ」
ディアボロスは言葉に力を込めて告げる。
彼の声には、もう何度もこの状況を経験しているがゆえの諦めと、徐々に積もる不満が見て取れた。視線を壁に向けると、そこにあるはずの存在がいない事実が改めて痛感される。
――魔族の長にして恐怖の象徴たる大魔王・サッタン。
その姿が、どこにもなかった。
「まったく、勇者一行がもうすぐここに迫っているというのに……こんな時にどこへっ……」
ディアボロスは手にしていた報告書を無造作に机に投げ出し、その額に手を当てた。竜人・リューナが静かにその様子を見つめ、蛇のように舌を出して揶揄う。
「仕方あるまい? それが魔王たる
彼女の瞳は冷静で、何事にも動じないような強さを秘めていた。
「優雅に……。そう、そして冷静に対処するべきであろう?」
竜人族族長の生娘にして竜人族代表代理。
その威厳に相応しい振る舞いを心掛けるリューナであったが、しかし、その内面には小さくはない不安が渦巻いていた。
勇者たちが近づいていることは紛れもない事実。このままでは、いずれ彼らがここまでやって来てしまうだろう。
リューナはため息交じりに呟き、紅茶の入ったティーカップを手に取って恐る恐る舌を紅の湖面に付けると慌ててそれを引っ込める。
「あちゅぃ……」
小さく溢された小言は、誰もが聞いて聞かぬふりをした。
何事にも動揺せず、凛とした姿勢を保つのが彼女の信条だ。
そして、そう振る舞う事が竜人族代表代理である彼女の役割なのだ。
「優雅に、と言われてもなぁ……」
ディアボロスは苛立ちを抑えきれず、玉座を睨みつけた。
「我らが王が、行方知れずなのだぞ!?」
玉座の前に設けられた会議テーブル。
そこに座した最高幹部の残る三名は肩を竦め合う。
重い沈黙を破ったのはスケルトンのフィオナだった。
「……まぁ、またいつものことですし」
カチャカチャと骨を鳴らしながら斥候達からの報告書を手に取る。
彼女の全身は骨だらけ――、もとい、骨しか残っていない。いわゆる“骸骨”だった。
その背後に飾られた生前の姿を映した絵画は彼女が如何に絶世の美女であったかを示すものであるが、いまやその美貌は、骨のみとなり、傾国の笑みすら見せることもできない。
ただ、その飄々とした態度は健在だった。
「魔王様は忙しいのですわ?」
「忙しいって……何がだ」
ディアボロスはフィオナを睨みつけた。
「この状況で他に何を優先するというのだ、我らが王は……」
「ほら、例えば“ネコの散歩”とか?」
フィオナは冗談交じりに答える。
「……ネコの散歩だと?」
ディアボロスは苛立ちを募らせ、言葉を詰まらせた。
「あり得るから困る……」
一度、そんな事があったのだ。大悪魔は深く意識を吐き、一同を見回した。
すると、それまで長机の一番端で身体を小さくして黙っていた魔女・サラマンダはびくりと体を震わせ、怯えたような表情で他三名の幹部の顔色を伺う。
魔女サラマンダは魔王にスカウト――、もとい、拉致されてからは流されるがままに忠実な部下として仕えてきたが、実際の戦闘経験はほとんどない。「戦闘に加わらなくてもいいから、必要な時に必要な魔法を使ってくれればいいから」と言われていたので、その覚悟すらなかった。
「ま、ま、魔王様……! い、いないならにげ、にげっ……!」
声は震えていた。そして、その目にはありありと恐怖の色が浮かんでいる。
「気持ちは分かるが、貴様はもう少し落ち着きを持て……。仮にも幹部だろうに」
「でもっ……! でも!」
「はぁ……」
ディアボロスは大きな手で頭を掻きながら、少しだけサラマンダに優しい視線を向ける。ディアボロスはこの娘の事が好きだった。小動物を眺めている心持ちになれる。
「俺たちがいるんだから、大丈夫だ。何もお前一人にどうかしろと言っている訳ではない」
次第にささくれ立っていた気持ちが落ち着きつつあるのを感じ、彼は脇にどけておいた酒樽に手を伸ばす――、が、その中身は空だった。
「……ちっ」「ひぃい!?」
大悪魔の舌打ち呼応して広場に噴出した地獄の業火にサラマンダはますます縮こまる。魔王様がいれば、少なくとも彼女の身の安全は約束されているはずだった。しかし、今の状況では、自分の身は自分で守る他ない。
「かくれっ……、かくっ……」
がくがくぶるぶると机の下に身を潜める魔女は微塵も魔王軍幹部に相応しくはない振る舞いだった。
「さて、そろそろ、どうするか決めませんと」
フィオナは骨の手を振り上げ、軽く呟く。
「とにかく魔王様がいない間、代わりに指揮を執る人が必要かと思いますわ?」
「代わり……?」サラマンダは嫌な悪寒を覚え、「だ、だれが……」その視線は周囲を彷徨い――、
「ま、まさかっ……」
残る三名の視線が自分に向けられている事に気が付いた。
ただでさえサラマンダの青白い顔が血の気を失っていく。
「お主が一番魔王様に近い位置におるのは確かじゃのぅ?」リューナは長い舌で頬を舐めながら笑う。
就任歴で言えば大悪魔ディアボロスが最古参ではあるが、サラマンダは「魔王軍の最終兵器」として拉致されて来たのだ。
そして、魔王はサラマンダこそ、自分の右腕に相応しいと度々こぼしていた。
「ネコの世話であれば、貴様が一番だと仰っておいでだ」
「ね、ねこ……! かんけいな、いっ!」
サラマンダの体の震えはいまや会議机にまで伝わって来ている。
「むり、です!」
「……まぁ、そうか」
ディアボロスが答えると沈黙が再び会議室を覆った。
実力はどうであれ、サラマンダの統率力はその壊滅的なまでのコミュニケーションの無さを見れば明らかだ。無駄に犠牲者を増やす事にしかならないだろう。
その場にいた全員がそれぞれの思いを巡らせてはいたが、どうすべきかなど誰も分からない。これまで、ほぼすべての決定権は魔王にあり、彼らはその指示に従って来ていただけなのだから。
「……ゆ、勇者を撃退する秘策に心当たりのあるものは、おらんのかや?」
沈黙に耐えかねたリューナは静かに問いかける。その言葉は冷静ではあったが、内心の確かな焦りが伺い知ることが出来る。
「優雅に、対処できる策を、何か……」
彼女の言葉に、ディアボロスは施策を巡らせるべく、瞼を閉じる。どこか遠くで風が吹く音がする。
いまこうしている間にも勇者たちは確実に近づいているだろう、まるでその足音が聞こえてくるようだ。
時間はない。しかし、策もない。
「そうだ、思い付いた」
フィオナが骨の指を鳴らしながら言った。「勇者たちを……、宇宙にまで飛ばしてみせるとか、どうかしら?」
ディアボロスは首を傾げる。
「うちゅう……、とは、なんだ」
「宇宙とは天の彼方、この惑星の外側の事よ?」
フィオナは自信満々に告げるが他の三名はいまいち理解できないようでぽかんと口を開けている。良く分からないのだ。
「む、無理! 勇者さんたちを飛ばせるだけの力があるならのなら、そのまま倒せる!」
サラマンダは声を上げた。
宇宙というのが何処なのかはいまいちわからないが、とにかくそんなことは出来ないだろう。
「あらま、それじゃ、勇者たちを鏡の中に閉じ込めるっていうのは?」フィオナが笑いながら続ける。「無限に自分たちの分身と戦わせるみたいな?」
「そ、それも、無理……」サラマンダは困った顔をして首を振った。「勇者に同行している私の先輩は対魔力防御に優れている……。き、きっとすぐにかき消されちゃう……」
サラマンダの現実的な反論にフィオナは肩を落とした。
しかし、そのやり取りを見ていたリューナは僅かばかりの閃きを得ていた。
「しかし、その方向は面白いかも知れぬな」
リューナは告げると少し真剣に考えこんで見せる。
「勇者たちが想像もしないような方法で、心理的に混乱させる……例えば、彼らが何かを求めている場所に行かせて、それが手に入らないようにする。目的を完全に見失わせる……」
「美人なわ・た・し、が色仕掛けするとか?」
うっふん、とポーズを決めるフィアナであったが所詮は骨だ。
かつての傾国の美女の面影は最早なかった。
「普通に、迷子、なら……」
サラマンダは思い付いたことを口に出して見る。
「勇者たちを巨大な迷路に閉じ込めて、出口に向かって進むたびに道が逆になる迷路を作る、とか……。まるで一歩進むと二歩下がるような、完全に錯覚させる仕掛けで、永遠に出口にたどり着けない……。しかも、迷路の途中にご褒美の『伝説の剣』っぽい物をちらつかせておけば……?」
「面白いかも知れぬ……」ディアボロスは呟いた。
勇者一行を打ち倒す事は不可能だが、時間稼ぎにはなる。
彼の内心に、一瞬の希望が灯った。
「決まりね!」フィオナは手を叩いて、勝ち誇ったように笑う。「巨大な迷路、勇者たちの出口を奪う! いいじゃない!」
「で、でも……その、そんな巨大な迷路……本当に作れるんでしょうか……」サラマンダはまだ不安そうだ。
「サラマンダ、其方であれば可能じゃ。自信を持て」
サラマンダの次に魔法に通じているリューナは彼女の肩に手を置いて、にやりと笑った。
「童も手伝う」
「りゅ、リューナさん……!」
いまにも泣きそうになっていたサラマンダは驚きつつも瞳を輝かせた。
「そうとも、己が力を信じろ。魔王様を信じろ。仲間を、信じろ」
ディアボロスが朗々とした口調で告げ、彼女に力強い視線を送った。
サラマンダは一瞬ためらったが、やがて小さく頷いた。「……が、頑張ってみます……」
こうして、彼らは勇者たちを永久に迷わせる「無限迷路作戦」を実行に移し、数時間後、巨大な迷路が魔女サラマンダの魔法によって完成した。
突如出現した迷路の只中に勇者達一行は戸惑い、足を止める。
監視球の映し出す映像を眺め、四人はじっと事の成り行きを見守る。彼等は無限に広がる迷路の出口を見つけることが出来ず、永遠に迷路を彷徨うことになる――。……そう信じていた。
「見ろ、あいつら完全に迷っているぞ!」
ディアボロスが迷路の中で困惑している勇者たちの確認し、満足げに頷く。彼らは何度も同じ場所を行き来し、出口を見つけるどころかますます深みにはまり込んでいた。
「わ、わたしの作戦……う、うまくいってます……!」
サラマンダは小さくガッツポーズをしながら、内心ホッとする。
「優雅に彼らを追い詰めることができましたわね」
フィオナも満足そうに微笑み、髪をかき上げた。「このままでは彼らは永久に出られません。勝利は我々のものですわ?」「案外、呆気なかったのぅ?」リューナが確信的な笑みを浮かべる。
その時だった――。
監視球に映った勇者たちが、突如として奇妙な動きを始めたのだ。
「ん?」フィオナが小首を傾げた。頭蓋骨が頭から転げ落ちそうだ。
「何を、やってるのかしら?」
「……踊ってる?」
サラマンダが小さくこぼす。
そう、勇者たちは迷路のど真ん中で踊り始めていた。リーダーの勇者が、まるで踊り子のようにステップを踏み出し、仲間たちもそれに続いて、陽気に、歌を歌いながら。
剣を持ち、振りかざし、全員がリズムに合わせて身体を揺らす。
時には迷路に身を擦りつけながら奇怪な動きを繰り返していた。
「こ、これは……」ディアボロスが眉をひそめた。「何かの……儀式か?」
「ちょ、ちょっと待って、これって……」サラマンダが混乱した頭で知識を引っ張り出して来る。「もしかして……『迷路神への祈りのダンス』?」
「『迷路の神への祈りのダンス』……だと?」
ディアボロスが唖然とこぼす。
「き、聞いた事があるわ……。その昔、どんな迷路も目隠しをして踏破出来た伝説の偉人が伝えたとされる伝説の……!」
フィオナはがちがちと骨を打ち鳴らしながら告げる。「あれは、どんな迷路でも必ず解ける究極のダンス! 踊れば迷路の出口が向こうからやってくるとまで言われている……! そんな、実在しただなんて……!?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」サラマンダがパニックに陥り、オドオドしながらフィオナに詰め寄った。「わ、わたし、そんな踊りで抜けられるような簡単な迷路を作ったわけじゃ……!」
だが、そうこうしている間にも勇者たちの踊りは更に激しくなり、その動きはますますリズミカルになっていった。
そうして、まるで迷路の壁が彼らのステップに反応しているかのように、道が次々と開かれていく。
「まずい! このままだと奴ら、出口にたどり着くぞ!」ディアボロスが叫んだ。
「ど、どうしましょう!」サラマンダはますます慌てていた。自分の迷路が、まさかこんな方法で破られるとは思ってもいなかった。
「こうなったら、私たちも踊るしかないわ!」フィオナが叫び、突然その場で踊り出した。「ほら、みんなも!踊って踊って! 迷路が消える前にこっちも対抗するのよ!」
「えぇっ!?」サラマンダは驚きつつも、フィオナに引っ張られるように踊り始めた。リューナも仕方なく優雅にステップを踏み、ディアボロスさえも渋々と踊りに参加する羽目になった。
それは迷路神からの復讐の舞。
目隠しなどというふざけた条件で神の作り出しし迷路を踏破した伝説のチャレンジャーに対抗すべく、迷路神が生み出したという人を迷わせる儀式だった。
「ほら! ほらほら!」
フィオナの踊りは激しさを増し、骨の打ち鳴らすカッコンコツコツというリズムが王の間に響き渡る。
サラマンダは半べそをかきながら踊り続け、リューナは見事なまでの運動音痴っぷりを発揮してサラマンダの足を引っ張る。
「な、何なのだこの状況は……」ディアボロスは眉間にシワを寄せながらも、仕方なく踊る。
しかし、彼らがどれだけ必死に踊っても、勇者たちのダンスには到底及ばなかった。
勇者達一行の踊りは洗練されていた。
まさに神話にも語られる伝説の舞いだった。
――そうして、まるで迷路自体が勇者たちに協力しているかのように、次々と道が開き、ついに――、
「ま、負けたわ……」フィオナがその場で崩れ落ちた。
文字通り、操り人形の糸が切れたかのように床に骨が散らばる。
監視球には、迷路の出口から飛び出した勇者たちの姿が映し出されていた。
「こ、こんな……ありえない……」サラマンダは息を切らしながらも完全に打ちのめされていた。自分の作り出した完璧な迷路が、まさか踊りで突破されるなんて。
「もう……、むりなのじゃぁ……」
リューナは完全にのびていた。
「だ、だが……、奴らとて無傷という訳にはいかなかったようだぞ……?」
ディアボロスはぜーはーと息を繰り返しながらも監視球を指でさす。
迷路を突破した勇者一行だったが迷路での踊りに疲弊した勇者たちは一度野営をし、体を休める選択肢を取ったのだ。
つまり、時間は稼いだ。
あとは魔王様の帰りを待つのみ――。
「はやく、帰って来てくださいませ魔王様……」
深く項垂れるディアボロス。
ゴロゴロと骨を転がるフィオナと再起不能になっているサラマンダとリューナ。
一晩経てば再び魔王城へ向けて出発するであろう勇者一行――。
こうして長きに渡る魔王不在の前哨戦の火蓋は切って落とされた。
絶対なる力の王である主君、魔王様がお戻りに為られるその日まで。
魔王軍最高幹部、四名による時間稼ぎの戦いは、続くのであった。
【続く?】