白い布に包まれた赤ん坊が眠っている。
『かわいそうに……』
女性のか細い声が、頭の中に響いた。
白い手が横から伸びてきて、赤ん坊の頭を撫でる。
——僕の手じゃない……?
女性の手に見えるが、随分と指が長い。
それに、少し透けているような気がする。
急に景色が変わった。
小屋のように簡単な造りの家の中だ。壁板の隙間から外が見える。
着物姿の幼い女の子と、両親らしき大人の男女。
「ごめんね……ごめんね」
母親が畳の上に座り、幼い女の子を抱きしめている。
その横では、父親が胡座をかいて座り、項垂れている。
『どうして……』
先ほどと同じか細い声が、頭の中に響く。
また景色が変わり、草だらけの畑が見えた。
野菜は枯れているものが多い。
汚れた着物を着た幼い女の子が、素手で土を掘っている。
小さな芋が出てくると、それを生のままで齧った。
——お腹が空いてるのかな、随分と細い子だ……。
手も痩せ細っているので、骨の形が分かる。
『あぁ……かわいそう……』
女性が啜り泣く声が響いた。
暗い場所に変わった。物がたくさん置いてある部屋だ。
白っぽい着物を着た男の子が、部屋の隅で膝を抱えて泣いている。
『もういい……』
頭の中に響く女性の声が震えている。
幼い男の子を、ゆっくりと抱きしめる手が視界に入った。その手は、やはり白く透けている。
——あの手は、誰の手なんだろう?
何度も見える長い指をした手と、泣いている女性の声。どうして泣いているのだろうか。
どんな人なのか、気になる。姿を見てみたい——。
白い世界に変わり、赤い靄が漂っている。下は水面だ。
長い白髪の女性が水面に座り込んで、両手で顔を覆っている。
『かわいそうな子……』声が響いて聞こえた。
——ずっと聞こえていた声は、あの女性の声だったのか。
ただ、女性の姿に違和感がある。
銀色に近い白髪だが、老婆ではない。
もっと若いような気がした。
それに人間の手にしては、随分と指が長い。首も長い。
肌も白い陶磁器のように真っ白で、血の気を感じない。
ふと、御澄宮司が、この村に災いを起こしているのは、人間や動物の死霊ではないかも知れない、と話していたのを思い出した。
——御澄宮司が言う通り、あの女性は人間じゃない気がする。人間の形に似た『何か』だ……!
『うっ……うぅっ』嗚咽が聞こえる。
——泣いてるのか? なんだか苦しそうな声だ。
女性はずっと両手で顔を覆っているので、表情が分からない。
さぁっ、と女性の周りから、赤い靄が濃くなって行った。井戸の中から出ていた靄と同じで、真っ赤だ。
『……誰だ!』
女性が少しだけ顔をこちらへ向ける——。
鮮血のように赤い目が視えた。
頬を流れる涙も赤い。
漂っている赤い靄が一気に濃くなり、視界が遮られても、赤い目だけは視えている。
突然、身体中に耐え難い痛みが走った。火で焼かれるように、ジリジリと痛む。思わず叫んだが、声にはならなかった。
女性の赤い目が、僕を睨みつけている。
『ゆるさない……!』
ずっとか細かった女性の声が、大きな声で頭の中に響いた。
——右手が、痛い。
はっ、と気がつくと、苦しげな御澄宮司の顔と天井が目に入った。
しかも、僕が御澄宮司の首を右手で掴んでいる。指の関節が痛いほど、力が入っているのが分かった。
「え……?」
御澄宮司が僕の手を振り払う。
「うっ、ゲホッ! ゲホッ!」
苦しそうに咳き込む御澄宮司を見ていると、僕まで呼吸をするのが苦しくなってきた。
「僕、が……? なんで」
身体が震えた。
僕は何をしていたのだろうか。首に食い込むほど、強い力を入れていたが全く記憶がない。
「だい、じょ、ぶ……ゲホッ! はぁっ、はぁっ、はぁっ」
すごく苦しそうだ。そうさせているのが自分だと思うと、恐ろしくて身体が冷たくなってくる。
「ちがっ……。一ノ瀬さん、は、悪く……ゲホッ! ない、ですか、ら」
御澄宮司が僕の腕を掴んで言う。
「でも、僕が……」
「違、うんです。一ノ瀬さんの、せいじゃ……はぁっ、はぁっ、ないんです」
何度も深呼吸をしてから、御澄宮司は、携帯電話のライトをつけた。
「いきなり部屋の電気をつけると、目に良くないような気がするので……」
バッグの横に置いてあったティッシュを数枚引き抜くと、御澄宮司は僕の両目の横を、何度も交互に拭う。ティッシュが、どんどん濡れて行くのが分かった。
「目、痛くないですか?」
そう言われて初めて、目の奥が脈打つように痛いことに気が付いた。
「目の……奥が痛い、です……」
普通に喋ろうとしても、声が震える。
御澄宮司は僕の顔の前に、ティッシュを持ってきて見せた。
「えっ、何で」
ティッシュは薄暗くても分かるほどに、全体が赤く濡れている。
「一ノ瀬さんは『ゆるさない』と言っていたのを覚えていますか?」
「僕がです、か?」
「そうです」
「いえ、全然……。ゆるさないと言ったのは、あの、女の人です」
「女の人?」
「でも、人間じゃないかも知れなくて。な、なんか……おかし、くて」
赤い靄の中からこちらを睨む、真っ赤な目。思い出すとまた激しく身体が震えた。
「大丈夫ですから、落ち着いて。何を視たのか、教えてもらえますか? ゆっくりでいいので」
布団から起き上がって座り、御澄宮司に渡されたペットボトルの水を飲むと、少しだけ呼吸をするのが楽になった。
「最初は、子供が出てきたんですけど……。何だろう、あの女の人の視界、なのかな……。いろんな子供が出てくる記憶のようなものを視て、あの女性の声も聞こえたんです。かわいそうとか、もういい、とか言っていました。何度か白く透き通った手が視えて、あの視え方からすると、声の主の手だと思います。ただ……」
「ただ、何ですか?」
「指が、すごく長いなって……。指が長い人もたまにいますけど、そんなレベルじゃなくて、関節一つ分、長いというか。とにかく、変だったんです」
「だから、人間の霊体ではないと感じたんですね?」
「はい……」
「その後は?」
「その後は——あっ! 僕……あの手が誰の手なのか、気になって……」
「視ようとしてしまったんですね。だから、向こうの領域に意識が入り込んでしまった」
「そう……かも、知れないです」
「姿も視たってことですよね? 何がいましたか、そこに」
思い出したくない。見た目だけなら、ホラー映画に出てくる化け物の方が恐ろしいと思う。それでも、あの赤い目を思い出すと、身体の震えが止まらなくなる。
「銀色に近い白髪の、長い髪で……。肌が、異常に白くて。指や……首も、普通の人間の、倍くらいの長さでした。あと……目が。目が、血の色みたいに真っ赤で」
ふうっ、と御澄宮司がため息をついた。
「話を聞く限り、やはり人間の霊体とは思えませんね。その赤い目の女性がどこにいたか、分かりますか?」
「場所は……。周りは真っ白だったので、どこにいるかは分かりません。白い世界に、井戸と同じ赤い靄が漂っていて、その女性は水面に座っていました」
「水面? それは——はぁ。厄介だな……」
御澄宮司は、眉間を押さえて俯いた。