たしかに紅凛は声しか聞こえなかった女性のことも、僕にしがみついてきたあの子供たちのことも知っている。ただそれは、紅凛に霊力があって、彼らの存在を知ることができているだけで、僕や御澄宮司にもできることだ。紅凛を追いかける必要はないような気がする。
「紅凛ちゃんは、御澄宮司に会いたくないんだよね?」
「絶対に、いや! いきなり知らないおじさんに追いかけられたら、蒼汰くんだって、嫌でしょう?」
「おじさん……」
「それに、あの人は絶対に悪い人だもん。騙されちゃダメだよ、蒼汰くん!」
「騙すなんて、そんなこ、と……」
それ以上、言葉が出てこない。今は『ない』と言い切れない自分がいる。御澄宮司に対して、不信感を抱いているのは確かだ。
「あっ」
紅凛が小さな声をあげた。
「ほら、来た。もう行くね。またね、蒼汰くん」
小声で言いながら紅凛は、いそいそと神社の床下へ入って行った。
——前に御澄宮司が来た時も、床下を逃げ回っていたのかな……。
ざっ、ざっ、ざっ、と砂の上を歩く音がする。恐る恐る顔を上げると、御澄宮司が境内に入って来るのが見えた。
——やっぱり、紅凛ちゃんが言っていることが合っているのかも知れない。なんで御澄宮司は、紅凛ちゃんに会おうとするんだろう……?
近付いてくる御澄宮司は何の表情もなく、まっすぐに僕を見ている。何を考えているのか、全く分からない。
「こんなところにいたんですね、一ノ瀬さん」
思わず唾を、ごくりと飲み込んだ。
「あ、はい……。神社には異常はないようです……」
「それは良かったです。もう全体を見てまわったんですか?」
「そうですね」
「中も見ましたか?」
「えっ? 中は見てないですよ、勝手に入るわけにはいかないですし……」
僕が言うと、御澄宮司は靴を脱いで階段を上がり、古びた格子戸を開けた。
「入っていいんですか?」
焦る僕を尻目に、御澄宮司は拝殿の中へ入って行く。
「えっ、ちょっと、御澄宮司?」
「大丈夫ですよ。神主をしていたという、白榮さんの兄とその家族は亡くなっていますし、神と呼ばれるような存在の気配は感じませんから」
「神様がいない神社ってことですか?」
「前がどうだったかは分かりませんけどね。とりあえず、今はいません」
そう言われて拝殿の中を見まわした。
「たしかに、神聖な空気とか、強い気配みたいなものは感じませんね……」
拝殿の奥には、さらに木の扉がある。御澄宮司はなんの迷いもない様子で、扉を開けた。
「これは……」
拝殿よりも狭くて暗い部屋の中を見ながら、腕組みをした御澄宮司は、ため息をつく。
——何があるんだろう。
不思議に思いながら覗き込むと、真っ二つになった平べったい櫛が落ちていた。赤い櫛に黒と金色で模様が描かれているようだ。着物姿の女性が、似たような櫛を髪飾りにしているのを見たことがある。
「落ちて壊れたというよりは、誰かが壊したように見えますね……。一ノ瀬さんはどう思いますか?」
「たしかに真ん中から真っ二つって、少し不自然な感じがしますね。落ちたのなら、もっと割れる場所が偏ったり、櫛がバラバラになったりするような……」
片膝を床についた御澄宮司は、半分になった櫛を持ち上げた。
「……微かに、井戸の水と同じような気配を感じます。もしかすると、ここには土地神が祀られていたのかも知れませんね」
「御神体になっていた櫛が割れたから、神様が荒れたってことですか?」
「いいえ、櫛に邪気が残っているということは、元々よくない状態だったはずです。それが櫛が割れたことで、力を抑えることができなくなったのでしょう。はぁ……。誰が櫛を割ったんでしょうね、面倒なことを……」
一瞬、紅凛が脳裏に浮かんだ。いつも神社で遊んでいる紅凛が誤って割ってしまった、ということはないだろうか。
——いや、こんな所までは入らないか。それに、本当に神様がいたのなら、紅凛ちゃんはその気配に気付いたはずだ。悪戯で櫛を触ったりはしないような気がする。
「どうかしましたか?」
声がして、はっとすると、御澄宮司と視線がぶつかった。
「いえ、何でもないです……」
すると、じとっとした目で、御澄宮司は僕を見上げた。
「まさか……一ノ瀬さんが割ったんじゃないですよね?」
「はいっ⁉︎ そんなことをするわけがないでしょう! それに、この村に異変が起き始めたのって、僕がここへ来る前からじゃないですか!」
「ははは、冗談ですよ。びっくりしました?」
「へっ……? やめてくださいよ、もう!」
完全に揶揄われている。思い切り反応してしまったことが恥ずかしくなった僕は、御澄宮司を置いて、一人で外へ出た。
「まったく……。大変なことが起こっているのに、僕を揶揄っている場合じゃないだろ」
ぶつくさ言いながら、また階段に座る。
相変わらず空は曇っていて、肌寒い。冷たい湿気が身体にまとわりつくのが不快だ。
雨上がりで地面が濡れているせいか、泥臭い。何となく生臭いようにも感じて、呼吸をする度に気分が滅入ってくる。
「はぁ……。早く帰りたいなぁ。美味しいものを食べて、自分のベッドに寝転がりたい……」
両手を後ろについて空を見上げていると、後ろから足音が近付いて来た。
「まだ自宅に帰るわけにはいきませんが、金子さんの家に戻りましょうか」
上から僕の顔を覗き込んだ御澄宮司が、にっこりと微笑む。
「もう、家に帰りたいんですけど……」
「えぇ、帰りましょう。金子さんの家へ」
——話が通じないな……。
これ以上言ってもムダだと思った僕は大人しく、御澄宮司と一緒に金子の家へ戻った——。