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第9話

 山奥にある小さな村の中には、旅館やホテルはない。御澄宮司は前にきた時も、金子の家に泊めてもらったようで、今回は僕も一緒に泊まらせてもらうことになった。


 外観を見た時も大きな家だと思ったが、テレビで見た武家屋敷のように、座敷がいくつもある。


 夕食を終えた後に、借してもらう部屋へ行くと、隅の方に布団が置かれていた。いつもはベッドで寝ているので、畳の上に布団を敷いて寝るのは久しぶりだ。早速布団を敷いて、寝転がってみる。


 ——あ。寝転がると、廊下が見えるのか。ちょっと嫌だなぁ……。


 廊下へ繋がる障子戸は、下の部分がガラスになっている。


 真っ暗な廊下に、この世のものではないものの白い足があるのを想像してしまう。ホラー映画の見過ぎなのだろうか。


 襖の向こうは、御澄宮司がいる部屋だ。一時間ほど経っても、彼はまだ起きているようで、たまに物音がする。


 ——御澄宮司が起きている間に、寝てしまおう。


 豆電球はつけたままにしているが、古い家の中が、何となく不気味に感じてしまう。御澄宮司が寝て、しん、としてしまうと、暗い部屋の中や廊下に、何かがいるのではないかと気になって、眠れなくなりそうだ。


 部屋の中を見なくて済むように、布団を頭から被って、目を閉じた——。




 ぴちゃっ、と水滴が落ちるような音がして、目が覚めた。


 まだ部屋の中は暗い。朝にはなっていないようだ。布団の横に置いてある携帯電話を手に取り画面を触ると『02:23』と表示されている。


 ——もう一回寝よう。


 携帯電話を置いて目を閉じた。


 すると夢現の中でまた、ぱしゃんっ、と魚が水面で跳ねたような音が聞こえた。


「気のせいじゃない、よな……。何の音だ……?」


 起き上がり布団の上に座って、耳を澄ませる。


 ぴちゃっ、と水滴が落ちるような音が、はっきりと聞こえた。


 ——どこから聞こえるんだろう……。


 僕はゆっくりと起き上がった。静かに障子戸を開けて廊下を覗いたが、暗くて何も見えない。


 しばらくするとまた、水がちょろちょろと流れているような音がした。音は、左側の廊下から聞こえた気がする。


 ——なんで水の音がするんだろう。もう夜中だし、誰かが起きているような気配はしないのに。


 僕は廊下へ出て、左側へ歩き出した。寝ている人たちを起こさないように、静かに歩く。


 ぴちゃっ

 ぱしゃん……


 歩いている間も、何度も水の音がする。音が大きくなっているということは、進む方向は間違っていないのだろう。


 廊下を曲がってまた進むと、トイレの前に着いた。ただ、水の音はトイレの中ではなく、もっと遠くから聞こえているような気がした。おそらく、トイレの向こう側に、何かがあるのだ。


 ——そういえば、上の方に窓があったはずだ。


 トイレの中に入ると、僕の顔と同じくらいの位置に、横に長いすりガラスの窓がある。そっと窓を開けて、外を覗いた——。


 暗がりに、ぼんやりと赤い靄のようなものが漂っている。地面にある、大きな丸い筒状のものから溢れ出しているようだ。


 ——何だろう、あの赤い靄は。


 ふと紅凛が、僕に『赤いものが憑いている』と言ったのを思い出した。もしかして、この靄のことを言っていたのだろうか。あの時は視えなかったが今は、はっきりと視える。


 しばらくすると、赤い靄は空中にふわりと浮かび上がり、風でも吹いたのか、僕の方に流れてきた。


「うっ! このにおいって……!」


 昼間に嗅いだ、赤い井戸水のにおいだ。夏場のゴミ捨て場のような、強烈な腐敗臭。


 ——しまった! トイレの向こう側には、井戸があったんだ!


 後退りをしてトイレから出たが、窓が開いたままだ。赤い靄は、すうっと窓を通ってこちらへ流れてくる。逃げたいのに、身体が思うように動かせなかった。


 ——あ……まずい。


 赤い靄が目の前に迫り、思わず目を瞑った。


『どうして……なんで……』


 頭の中で、女性のか細い声が響いた。啜り泣きも聞こえる。




 突然、別の場所にいるような景色が視えた——。




 暗いので夜だろう。昼間に行った神社の前に立ち、境内の方を向いている。たまに長い髪の毛がなびくのが視えるので、泣いている女性の視界なのだろうと思った。


 また景色は変わり、雨が降っている日の川が視える。激しく降る雨で、川の向こう側はよく視えないが、近くに小高い山があるのは分かった。


 濁流と化した川の轟音とは別に、ゴゴゴ……と、地の底から響くような低い音が聞こえる。何となく、視えている山が崩れそうな気がした。


『かわいそうに……』また女性の声が頭の中に響いた時。


 脚や腹を、冷たい何かが触った。


「うわっ、なに……」驚いて目を開け、下を向くと——。




 幼い子供が、大勢いるのが視えた。




 赤い靄の中で、脚や腹にしがみついた子供たちが、僕を見上げている。


 皆、十才にも満たない小さな子供だ。

 男の子も、女の子もいる。

 子供たちの眼窩は真っ黒で、目玉はない。

 顔や手の一部が、崩れている子がいる。


「はっ……あ……」叫びたいのにそれ以上は、声が出なかった。


 子供たちは、泣いているのか、苦しいのかは分からないが、口元を歪ませている。


 口を動かしているので、何かを言っているのだろう。でも声は聞こえない。聞こえるのは、女性が啜り泣く声だけだ。


 子供たちは全員が僕を見上げている。

 懸命に、何かを訴えているのだけは分かった。


 そして、腹にしがみついている着物姿の男の子が、もがきながら僕の顔の方へ手を伸ばす——。


「うっ、うわあぁあああ!」


 仰け反った瞬間、後ろから両腕を強い力で掴まれた。


「一ノ瀬さん!」


 御澄宮司の大きな声がして、バシッ! と胸に何かを叩きつけられた。胸に目をやると、白い札を、御澄宮司が僕の胸に当てている。


「大丈夫ですから、ゆっくりと深呼吸をしてください!」


 そう言われて、自分の呼吸が浅く、速くなっていることに気が付いた。身体も激しく震えていて、上手く深呼吸ができない。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、息、できな……!」


「大丈夫! もう大丈夫ですから!」


 御澄宮司はそう言うが、子供たちはまだ僕にしがみついたままだ。全員が僕を見上げて、何かを言っている。


 ——怖い! 怖い! 怖い! 怖い!


 もう視ていられない。しかし目を瞑るのも怖い。


『どうして……もういい……』


 また悲しそうな女性の声が頭の中に響くと、子供たちと赤い靄は、すうっと消えて行った——。


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