玄関前に戻った僕は、その場に座り込んだ。
まだ頭痛と吐き気が続いている。もう一度、井戸水のにおいを嗅いだら、間違いなく吐くだろう。
「一ノ瀬さん、大丈夫ですか?」
御澄宮司が僕を見下ろしている。心配しているように聞こえるが、唇の両端が、ほんの少し上がっているように見えるのは、気のせいだろうか。
「大丈夫、ではないですけど……。あの井戸水は、なんだか嫌な感じがしましたね」
「えぇ。村の中を歩きまわった時は、大した気配は感じなかったのに、井戸水があれだけ嫌な感じがするということは、地下に何かがいる、ということかも知れませんね……」
「地下かぁ。そんなの、捜しようがないですね」
「出てくるのを待つか、引きずり出すか、ですけど……。亡くなった方たちが怯えた顔をしていたのなら、何度も地上に出てきている可能性が高いですね。ただ、どこに出てくるのかが分からない。う〜ん、難しいですね……」
御澄宮司は目を瞑って天を仰ぐ。
「でもこれだけでは、正体までは分からないですね。僕も嫌な気配は感じましたけど、それが何かまでは分からなかったです。御澄宮司はどうでしたか?」
「はっきりとは分からないですけど、前に荒らされた古寺へ行った時に感じた気配と似ていますね……。後継者がいなくなり、放置された古寺があったんです。そこに肝試しに入った若者たちがいて、あろうことか、ふざけて仏像を破壊したんですよ。長い間、きちんと祀られていた御神体に憑いているものは、強い力を持っていることが多いので、その人たちが祟られてしまいましてね。鎮めるのが大変でした」
御澄宮司がため息をつくと、白榮が「そんな……」と呟いた。
「うちの神社は、兄がちゃんと御神体をお祀りしていました! そんな、粗末に扱ったりはしていません!」
「気配が似ている、というだけの話です。まだ正体は見当もつきませんし、こんな事態になったのがお兄さんのせいだなんて、思っていませんよ」
御澄宮司が言うと白榮は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
十六人も亡くなっているのだから、兄のせいではない、と叫びたくなる気持ちは分かる。こんな事態を招いたのが兄のせいだとしたら、白榮やその家族も、この村にはいられなくなってしまうだろう。
「私は、川の様子を見て来ようと思うのですが……一ノ瀬さんは動けそうにないですね」
座り込んでいる僕を見下ろす御澄宮司の目が、笑っているような気がする。この人は、僕が苦しんでいる姿を見るのが好きなのだろうか。
「……そうですね。僕はちょっと、休ませてもらおうと思います」
「分かりました。体調が良くなったら、周辺を見てまわってみたらどうですか? 気分転換になって良いかも知れませんよ」
「そうします」
「それなら俺が残りましょうか?」
慶次が僕を見た。心配してくれているのだろう。
「一ノ瀬さんの体調不良は、悪いものの霊気に当てられたせいなので、しばらくすれば落ち着きます。今は一人の方がいいと思うので、慶次さんも一緒に来ていただけますか?」
そう言って、御澄宮司は三人を引き連れて行ってしまった。
「別にいいんだけど、一人でいる方が治るのが早いとか、そういうものでもない気がするんだけど……」
誰もいなくなった玄関前は、たまに風に吹かれて揺れる草木の音がするだけで、とても静かだ。空を見上げると、都会よりも青く澄んでいるような気がした。鳥たちも、ゆっくりと飛んでいて、警戒心がないように感じる。
「視えない何かが、人を殺しまくっているような場所とは思えないよな。本当に普通の田舎というか、長閑で良いところだと思うんだけど……」
三十分程で、頭痛や吐き気は治まった。
「はぁ、やっと楽になった……」
立ち上がって深呼吸をすると、身体がスッと軽くなった。井戸水の、吐き気を催すような腐敗臭は、まだ微かに感じるが、体調を崩すほどではない。
「御澄宮司はどこへ行ったんだろう」
辺りを見まわしたが、人影は見当たらない。随分と遠くまで行ったようだ。もしかすると村の中の状況を、確認しているのかも知れない。
「どうしようかな。もう楽になったし、捜しに行った方が——」
ふと気がつくと、神社の横にある林に、女の子の姿がある。
身長からすると、小学校の低学年くらいの子だ。白い服を着ている。少し距離があるので顔は分からないが、女の子はなんとなく、僕を見ているような気がした。
「知らない人がいる、と思われているのかな……?」
すると女の子は、くるりと向きを変えて、神社の方へ歩いて行った。そして、林の中で立ち止まって、また僕を見る。
——もしかして、呼ばれてる……?
行くかどうか迷いながら、僕は女の子の方へ、ゆっくりと歩き出した。女の子の様子を見ていたが、そのまま林の中から僕を見ている。
——やっぱり、僕が行くのを待っているみたいだ。子供は少なそうだし、遊び相手が欲しいのかな。