「そういえば先ほど、早く戻ってきて欲しかった、と言っておられましたが、何かありましたか?」
御澄宮司が村長の金子の方を向く。たしかに、着いた時に僕も聞いた。
——良い話じゃないのは分かっているけど、気になる。
「実は、村にある井戸の水が全て、赤く染まったんです。気味が悪くて……」
「それはいつのことですか?」
「一昨日の朝のことです。庭木に水をやろうと思って水を汲んだら、赤い水になっていたんです。それで、驚いて隣の家へ行くと、その家の井戸水も同じ状態になっていて、もしかして——と思って村の中を見てまわると、やっぱり他の井戸も、赤い水になっていました」
「なるほど……」
御澄宮司は視線を落とし、考えごとをしているようだ。
井戸の水を赤く染める。人の手で出来ないこともないけれど、たくさんの人が、おかしな死に方をしていることを考えると、人ならざるものの仕業だと思った方が無難なのかも知れない。
「金子さん。井戸を見せてもらっても良いですか?」
御澄宮司が言うと「はい、どうぞ」と金子は歩き出した。井戸は家の裏側にあるらしい。
裏庭の奥へ進むと、井戸が見えた。
すぐそばには山があり、落ち葉などが入らないようにする為なのか、井戸の上には木造の屋根のようなものがある。
「わー。本物の井戸は初めて見ました」
近付いて覗き込むと、金子が、ふふっと笑った。
「都会に住んでいる人は、見ることがないですよね。今は水道があるので、飲み水はそっちを使うんですけど、庭や畑に撒く水は井戸水を使うんですよ」
「へぇ。水道代が少なくて済むから良いですね」
「そうなんですよ。それなのに、水がおかしなことになってしまって。もう使う気になれませんよ……」
ふうっ、と金子は大きく息を吐いた。
「ところであなたは、御澄宮司の助手の方……ですか?」
金子にそう訊かれて気が付いた。御澄宮司が、僕を先に紹介しておかないと、と言ったのに、結局まだ紹介をしてもらっていない。
「あ、はい。一ノ瀬蒼汰といいます。よろしくお願いします」
軽く頭を下げると、金子と白榮も微笑んで同じように返した。感じの良い人たちだ。
——早く解決してあげたいな。
ガコン、と重さのある木材がぶつかるような音がした。
そちらを向くと村長の息子、慶次が、井戸の水を汲むための桶に繋がれた縄を引いている。
桶から流れ落ちる水は、たしかに真っ赤だ。赤い絵の具を水に溶かしたような色で、濁りがある。
「本当に、真っ赤ですね……」
よく見ようと桶に近付いた瞬間——。
「うっ! くっさ!」
夏場のゴミ捨て場のような、強烈な腐敗臭が漂ってくる。両手で鼻と口を覆って一歩下がると、足元がふらついた。
「えっ⁉︎ 何ですか、このにおい!」
思わず叫んだ。おそらく水が臭いのだろう。横の方で御澄宮司も目を瞑って唸っている。
「これはちょっと、強烈ですね……」
御澄宮司は自分の腕を鼻に当てて、眉間に皺を寄せた。
——これを庭や畑に撒いているっていうのか⁉︎ こんな水で育った野菜なんて、食べたくないけど……!
どう考えても、身体に悪そうだ。
「あのう、どうかしましたか?」
井戸のそばで慶次が、きょとんとした顔で言う。
「どうした、って……」
慶次は桶から一番近い場所にいる。この悪臭の中で、よく平気な顔をしていられるものだ。毎日嗅いでいるから慣れているのだろうか。
その時。御澄宮司が「あぁ、」と呟くのが聞こえた。
「このにおいを感じているのは、私と一ノ瀬さんだけのようですね」
「えっ?」
振り返ると、金子と白榮も驚いたような顔をして、僕を見ている。顔をしかめているのは、僕と御澄宮司だけだ。
「そんなことってありますか? こんなに酷いにおいなのに……」
「水自体が腐っていたり、人間が何かを井戸水に混ぜたわけではないからですよ。これが心霊現象なら、私と一ノ瀬さんだけが、においを感じる理由も説明できますから」
「でも、色は皆さんも赤に視えているんですよね?」
「これだけ穢れが酷いと、霊力の少ない人でも視えるかも知れませんね。でも、視え方は違っていると思います。一ノ瀬さんは桶の中の水が、どんな風に視えていますか?」
「僕は、赤い絵の具を水に溶かしたような感じで、少し濁っているので、桶の底は見えません」
「えっ?」
声がして顔をそちらへ向けると、慶次と視線がぶつかった。
「慶次さんは違うってことですか?」
「俺は赤って言っても、赤ワインを水で薄めたような感じに見えてますけど……。もちろん、桶の底もちゃんと見えてますよ。赤い絵の具を水に溶かしたような感じで、桶の底も見えないとか……そんなの、本物の血みたいじゃないですか。もしそう見えていたら、俺は村から逃げ出してますよ、気持ち悪い……」
「そこまで違うんですね……。赤って聞いたから、同じように見えているんだと思っていました。御澄宮司は霊力が高いから、僕と同じように濃い色で視えているんですよね?」
僕が言うと、御澄宮司は頷いた。
「井戸から桶が上がってきた時は、さすがに、ぎょっとしましたよ。桶から血が滴っているように視えましたから。だからこそ、皆さんとは視え方が違うんだろうなと思って、これ以上は近寄らないようにしていたんですけど——まさか、一ノ瀬さんが桶に顔を近付けるとは思いませんでした」
「だったら止めてくださいよ! 思い切り嗅いだじゃないですか!」
「本当にびっくりしましたよ。はははっ」
——僕の扱いが、段々と雑になっているような気がする……!
出会ったばかりの頃の御澄宮司なら、止めてくれていただろう。化け物が襲いかかってくるわけではないので、大丈夫。と思っていたのかも知れないけれど。
不用意に近寄ってしまったことを、今更ながら後悔した。井戸水のあまりの臭さに、胃の中のものがせり上がってくる。
「うぅ……。なんか、気持ち悪くなってきたんですけど」
息を止めても、強烈な腐敗臭が消えてくれない。脳が、ぐわんぐわんと揺れているような感じがして、頭痛がする。
「そうですね、私もそろそろ限界です。ここから離れましょうか」
「はい……」
ふらつきながら家の表側に向かう僕を、慶次が支えてくれた。
慶次の白いシャツは、袖の端が赤く濡れている。井戸の水で濡れてしまったようだ。井戸から離れても、慶次のシャツの袖から強烈なにおいが漂ってくる。
それと同時に、禍々しい、嫌な気配を感じた——。