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第3話


「そういえば先ほど、早く戻ってきて欲しかった、と言っておられましたが、何かありましたか?」


 御澄宮司が村長の金子の方を向く。たしかに、着いた時に僕も聞いた。


 ——良い話じゃないのは分かっているけど、気になる。


「実は、村にある井戸の水が全て、赤く染まったんです。気味が悪くて……」


「それはいつのことですか?」


「一昨日の朝のことです。庭木に水をやろうと思って水を汲んだら、赤い水になっていたんです。それで、驚いて隣の家へ行くと、その家の井戸水も同じ状態になっていて、もしかして——と思って村の中を見てまわると、やっぱり他の井戸も、赤い水になっていました」


「なるほど……」


  御澄宮司は視線を落とし、考えごとをしているようだ。


 井戸の水を赤く染める。人の手で出来ないこともないけれど、たくさんの人が、おかしな死に方をしていることを考えると、人ならざるものの仕業だと思った方が無難なのかも知れない。


「金子さん。井戸を見せてもらっても良いですか?」


 御澄宮司が言うと「はい、どうぞ」と金子は歩き出した。井戸は家の裏側にあるらしい。




 裏庭の奥へ進むと、井戸が見えた。


 すぐそばには山があり、落ち葉などが入らないようにする為なのか、井戸の上には木造の屋根のようなものがある。


「わー。本物の井戸は初めて見ました」


 近付いて覗き込むと、金子が、ふふっと笑った。


「都会に住んでいる人は、見ることがないですよね。今は水道があるので、飲み水はそっちを使うんですけど、庭や畑に撒く水は井戸水を使うんですよ」


「へぇ。水道代が少なくて済むから良いですね」


「そうなんですよ。それなのに、水がおかしなことになってしまって。もう使う気になれませんよ……」


 ふうっ、と金子は大きく息を吐いた。


「ところであなたは、御澄宮司の助手の方……ですか?」


 金子にそう訊かれて気が付いた。御澄宮司が、僕を先に紹介しておかないと、と言ったのに、結局まだ紹介をしてもらっていない。


「あ、はい。一ノ瀬蒼汰といいます。よろしくお願いします」


 軽く頭を下げると、金子と白榮も微笑んで同じように返した。感じの良い人たちだ。


 ——早く解決してあげたいな。


 ガコン、と重さのある木材がぶつかるような音がした。


 そちらを向くと村長の息子、慶次が、井戸の水を汲むための桶に繋がれた縄を引いている。


 桶から流れ落ちる水は、たしかに真っ赤だ。赤い絵の具を水に溶かしたような色で、濁りがある。


「本当に、真っ赤ですね……」


 よく見ようと桶に近付いた瞬間——。


「うっ! くっさ!」


 夏場のゴミ捨て場のような、強烈な腐敗臭が漂ってくる。両手で鼻と口を覆って一歩下がると、足元がふらついた。


「えっ⁉︎ 何ですか、このにおい!」


 思わず叫んだ。おそらく水が臭いのだろう。横の方で御澄宮司も目を瞑って唸っている。


「これはちょっと、強烈ですね……」


 御澄宮司は自分の腕を鼻に当てて、眉間に皺を寄せた。


 ——これを庭や畑に撒いているっていうのか⁉︎ こんな水で育った野菜なんて、食べたくないけど……!


 どう考えても、身体に悪そうだ。


「あのう、どうかしましたか?」


 井戸のそばで慶次が、きょとんとした顔で言う。


「どうした、って……」


 慶次は桶から一番近い場所にいる。この悪臭の中で、よく平気な顔をしていられるものだ。毎日嗅いでいるから慣れているのだろうか。


 その時。御澄宮司が「あぁ、」と呟くのが聞こえた。


「このにおいを感じているのは、私と一ノ瀬さんだけのようですね」


「えっ?」


 振り返ると、金子と白榮も驚いたような顔をして、僕を見ている。顔をしかめているのは、僕と御澄宮司だけだ。


「そんなことってありますか? こんなに酷いにおいなのに……」


「水自体が腐っていたり、人間が何かを井戸水に混ぜたわけではないからですよ。これが心霊現象なら、私と一ノ瀬さんだけが、においを感じる理由も説明できますから」


「でも、色は皆さんも赤に視えているんですよね?」


「これだけ穢れが酷いと、霊力の少ない人でも視えるかも知れませんね。でも、視え方は違っていると思います。一ノ瀬さんは桶の中の水が、どんな風に視えていますか?」


「僕は、赤い絵の具を水に溶かしたような感じで、少し濁っているので、桶の底は見えません」


「えっ?」

 声がして顔をそちらへ向けると、慶次と視線がぶつかった。


「慶次さんは違うってことですか?」


「俺は赤って言っても、赤ワインを水で薄めたような感じに見えてますけど……。もちろん、桶の底もちゃんと見えてますよ。赤い絵の具を水に溶かしたような感じで、桶の底も見えないとか……そんなの、本物の血みたいじゃないですか。もしそう見えていたら、俺は村から逃げ出してますよ、気持ち悪い……」


「そこまで違うんですね……。赤って聞いたから、同じように見えているんだと思っていました。御澄宮司は霊力が高いから、僕と同じように濃い色で視えているんですよね?」


 僕が言うと、御澄宮司は頷いた。


「井戸から桶が上がってきた時は、さすがに、ぎょっとしましたよ。桶から血が滴っているように視えましたから。だからこそ、皆さんとは視え方が違うんだろうなと思って、これ以上は近寄らないようにしていたんですけど——まさか、一ノ瀬さんが桶に顔を近付けるとは思いませんでした」


「だったら止めてくださいよ! 思い切り嗅いだじゃないですか!」


「本当にびっくりしましたよ。はははっ」


 ——僕の扱いが、段々と雑になっているような気がする……!


 出会ったばかりの頃の御澄宮司なら、止めてくれていただろう。化け物が襲いかかってくるわけではないので、大丈夫。と思っていたのかも知れないけれど。


 不用意に近寄ってしまったことを、今更ながら後悔した。井戸水のあまりの臭さに、胃の中のものがせり上がってくる。


「うぅ……。なんか、気持ち悪くなってきたんですけど」


 息を止めても、強烈な腐敗臭が消えてくれない。脳が、ぐわんぐわんと揺れているような感じがして、頭痛がする。


「そうですね、私もそろそろ限界です。ここから離れましょうか」


「はい……」


 ふらつきながら家の表側に向かう僕を、慶次が支えてくれた。




 慶次の白いシャツは、袖の端が赤く濡れている。井戸の水で濡れてしまったようだ。井戸から離れても、慶次のシャツの袖から強烈なにおいが漂ってくる。


 それと同時に、禍々しい、嫌な気配を感じた——。


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