◇
「ケガをした生徒の手当てが終わったら、私も会議に参加しますので。はい、事故の経緯や詳細は聞いておきますし、その時に……」
屋上の金網が落ちてきた件について、事情を聞きにきた事務員や教頭に仁科はそう告げると、保健室のドアを閉めた。
「ケガは、腕だけ?」
「はい。背中とかも打ったけど、まぁたいしたことはなさそうなんで」
室内は静まり返っていて、仁科が手当てをする音だけが静かに響く。
保健室に移動する最中、ハクとバクの本当の目的について聞かされた和都は、談話テーブルの椅子に座ったまま、じっと床を見つめていた。
「相模はケガとかしてないか?」
「……平気。菅原が庇ってくれたから」
仁科の問いにそれだけ答えると、和都はまた口をつぐむ。
屋上でのことを思い出していた。
菅原は自分がハクに近づこうとしたのを止めていたし、すぐに自分を庇ってハクからの攻撃を回避してくれていた。
小坂もすぐに状況を理解して、ハクを止めようとした。
分かっていて、注意してくれていたのだ。きっと、仁科か春日の指示だろう。
──おれだけ、知らなかったんだな。
ハクが
自分を食べて、バクと一つに戻るためだったのだ。
そして自由になる、ということは、相模和都でいるのを辞めること。
人を惹き寄せるバクの性質も、仁科家の末子が短命になる悲しい祟りも、自分が自分を辞めればいい。
簡単な話だ。
「……おれが。おれがハクに食べられちゃえば、全部終わるじゃん」
自分の手を見つめて、和都がポツリと言った。
と、次の瞬間、すぐ近くにいた春日が和都の襟首を掴んで立ち上がる。
「ふざけんな! お前、まだそういうこと言うのか?!」
「でも! 他に方法がないじゃんか!」
怒鳴るような声に、和都も叫ぶように返した。
睨み合ったまま、春日が白い歯をギリリと軋ませて唸る。
「……二度とそういうこと言うなって、言ったよな」
「わかってる! 分かってる、けど……」
鋭く睨みつける視線に、和都は目を逸らした。
自分からは死なない、という約束。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
たくさんの人が傷つかないで済むのなら、自分の命で全てが解決するなら、安くはないだろうか。
どうしても、そんなことを考えてしまう。
「おい、落ち着けよ、お前ら」
小坂が二人の肩を叩き、春日から和都を少し遠ざけた。
菅原の手当てをしながらその様子を見ていた仁科が、息をついて口を開く。
「相模。今日、お前の親は家にいるの?」
「え、と……」
「いません。昨日からまた、出張に行ってます」
口籠る和都の代わりに、春日が答えた。
聞いた理由は明白だ。
「……じゃあ今日は俺ん家にこい。春日、俺がそいつを見張る。それでいいか?」
「お願いします」
春日が憤った息を吐き出すように返す。
菅原の腕に包帯を巻き終わると、仁科は頭を掻いた。
「今、緊急の職員会議中で、治療も終わったし、俺も参加しないといけない」
本来は川野が行方不明になった件についての会議だったのだが、屋上での出来事も議題にあがるだろう。
どのくらいかかるのか、見当もつかない。
「お前ら相模ん家まで一緒に行ってくれる? 俺が迎えに行くまで、そいつが勝手なことしないように、見張っといて」
「……はい」
和都以外の全員が頷いた。
◇
「先生、遅いな」
四人で和都の家に向かい、広いリビングでそれぞれ何をするでもなく、仁科が来るのを待っていた。
「……菅原、腕のケガ、平気?」
「ああ、かすっただけだから、大したことないよ」
心配そうに訊く和都に、ソファに座った菅原はそう言って手を振ってみせる。
適当にお菓子を食べたり、関係のない話をしながら過ごしているうちに、外はすっかり夕焼けも終わり、空の端にわずかな橙色を残して紺色に沈み始めていた。リビングから見える道路沿いの街灯が、すっかり明るく輝いている。
和都は一人制服から着替え、泊まることになるので支度なども済ませたのだが、仁科が来る気配はない。
まだ時間がかかりそうだが、どうやって時間を潰そうかと話していると、ようやくインターホンが鳴った。
「……悪い、遅くなった」
迎え入れた仁科の顔は、学校で見た時よりも酷く疲れ果て、げっそりしている。リビングのソファに座らせると、ぐったりして背もたれに深く沈み込んだ。和都がグラスに入った麦茶を差し出すと、一気に飲み干して、ようやく話し始める。
「いやー、さすがに色々ありすぎて、困ったもんだよ」
川野の件については、春日と小坂の証言も踏まえ、すでに警察が介入しているらしい。
また、屋上での一件を、つむじ風と老朽化でゴリ押ししたところ、先日、仁科が鍵の故障で保健室に閉じ込められたこともあり、校舎全体を一斉点検することが決まって、明日明後日と臨時休校が決定したということだ。
「ここ最近は色々起きすぎたからなぁ」
「まぁ古い学校だし、ちょうどいいんじゃない?」
小坂と菅原はそう言うが、起きた出来事の殆どに『鬼』や怪異が絡んでいる。
仁科の横に座った和都は、グッと唇を噛んだ。
「……それから、堂島が事故に遭って、運ばれた」
「はぁ?!」
堂島は職員会議が始まる直前まで、学校の裏門を出てすぐのところで、下校する生徒の見守りに立っていたらしい。ちょうどそこに運転操作を誤った車が突っ込んできたようだ。
「ハクの仕業、か?」
「だろうな」
会議の始まる前ということは、ちょうどハクが屋上から離れてすぐくらいのタイミングになる。
「意識不明だが、心肺停止まではいってないらしいから、大丈夫だとは思うがな」
屋上を去る間際、ハクは『もう一つのお願いを叶えておく』と言っていた。
堂島に憑いた『鬼』を食うために、事故を引き起こしたのだろう。
自分のせいで。
自分を取り囲む色んなものが、おかしくなっていく。
何度も見てきた光景だった。
それならいっそ、全てを放り出してしまいたい。
「──前のおれなら、こっそり逃げ出して、一人でハクのとこに行ってたんだろうなぁ」
だって、それが一番簡単で、解決できる方法だから。
和都は自分の膝に乗せた手を、ぎゅっと握る。
「……でも、今はできないや」
声が震えていた。
「死ぬの、怖い」
目の奥がじんと熱くて、心臓がギュッと掴まれたように痛い。
「あんなに平気だったのに、今は、すごく、怖い……」
何もない自分の命はちっぽけで、たいした価値がないと思っていた。
けれど、だんだん自分にも、大事にしたいものが増えてきて。
いつ死んだって平気だったはずなのに、今は色んな約束と、大切な人たちがいなくなってしまう方が怖い。
死んでしまったら、それを自分から手放してしまうことになるのだと、ようやく分かった。
「みんなと、いたいなぁ」
呟くように言うと同時に、気付いたら涙が頬を伝ってポタポタと落ちていく。
「……相模ぃ」
和都の横に座っていた菅原が、泣きながら抱きついた。
大切にしたい人たちが、自分のために一生懸命になってくれる。それは自分と同じように、自分にいなくなって欲しくないと、大切に思ってくれているからなのだ。
「死なせないよ、絶対に」
仁科が和都の頭を撫でて言う。
「お前はちゃんと、みんなと同じように卒業するんだよ」
「うん……」
泣き出した菅原に抱きつかれたまま、和都も一緒にわんわん泣いた。
怖かった気持ちが今更になって渦を巻き、落ち着くのに時間がかかってしまった。
「──ごめん。色々、考えなきゃいけないのに……」
「気にすんな」
ひとしきり泣いて、和都が手の甲で涙を拭いていると、少し離れた場所で、小坂が鼻をすする。
「ハクがさっさと『鬼』を片付けちゃった以上、こっちも悠長にしてる時間はなくなった感じだな」
仁科はそう言いながら頭を掻いた。
本来であれば、ハクが『鬼』を食べ、白狛神社で待ち構えるまでの間、和都が最悪の手段を取らないよう見張りながら、バクに真相を話してその後どうするか考えるつもりだったのだが、そんな時間はもうない。
「ちょうどみんないるし、バクに頼まれた事件の真相について話しちゃおうか」
仁科は息をつくように言うと、自分の通勤用鞄を開けて封筒を取り出した。