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日が落ちて、空の端にオレンジの残り火が見える頃。
狛杜高校からほど近い山の中、車の往来がある整備された道から大きく外れ、草木が茂り、獣道に近い状態になった旧道を、スーツ姿の男がふらふらと歩いていた。
顔の右半分は焼け爛れており、どうにか見えている左目は異様なまでにギョロついている。
月もなく、明かりもない道だというのに、男は目指す場所へ真っ直ぐ歩みを進めていた。
「……忌々しい! 忌々しい!」
ぶつぶつと呪詛のように低い声で呟きながら男が辿り着いたのは、かつて神社のあった空き地の入り口。
そこには、訪問者がいなくなり、信仰の封印が解けた『鬼穴』があった。残念ながら落雷によって倒れた神木が穴の上にあるため、漏れ出すチカラは本来の半分もないが、微々たるものだとしても、悪しきチカラを源とする鬼にとって、そこは自身を回復できるパワースポットである。
男の目的は、そこから漏れ出るチカラで、この焼け爛れた顔を治すことであった。
鬼たちの間でも厄介だと噂される『安曇神社』の神力は、なかなかに強力である。
今までであればこの程度すぐに回復し、あの場にいた二人の子どもをあっさりと食えたはずだ。
だが『狛犬の目』に惹き寄せられ、魅せられすぎたせいか、他の人間を喰らうことを忘れ、全くもってチカラが足りない。
男はようやく着いた出入り口で息をつくと、かつて石で出来た階段のあった登り坂を、ぜいぜいと息を切らして登っていく。
少しでも近づけば、チカラを吸収して回復してくるはず。だが、その気配が一向に訪れない。
「……どうなっているんだ?」
坂道を登りきった男は愕然とする。
雑草が伸び放題に荒れ果て、穴に覆い被さるように倒木の転がっていた場所は、その巨木がなくなっていた。残っていた根株は切り整えられ、綺麗に整地された空間に新品の祠がポツンと佇んでいる。
また場所が綺麗になっただけでなく、きちんと清められており、当てにしていたチカラも、解き放たれていたはずの穴も、きっちりと封じられていた。
「なぜだ。いったい、誰が……」
〔バカだなぁ。カズト達に決まってるじゃないか〕
「貴様『狛犬の目』の
〔ピンポーン♪〕
楽しそうに答えると、ハクは雑木林の中から飛び出し、ゆっくりと空き地の真ん中に降り立った。
白い毛並みの巨大なオオカミ。首には赤白の捻り紐を結び、尖った耳と大きな口と鼻。前足、胴体、後ろ足、そして、お尻の先には大きく二股に分かれた尻尾が揺れる。
「……まさか、すでに完全体に?」
〔うん! まぁ一部分だけ視えないようにするなんて、朝飯前だからね!〕
「くそっ」
その男──川野は、強大なチカラを前に後退る。
あの『狛犬の目』に惹き寄せられてしまった悪鬼悪霊は、『狛犬の目』を食うことができなければ、『狛犬の牙』に食われるのだ。
〔いやー、君たち『鬼』が居てくれたおかげで、カズトもニシナからチカラを沢山もらえるくらいの仲良しになったよ。だからこれでも感謝はしてるんだ! カズトを狙ってくれてありがとうね!〕
「何が『ありがとう』だ。散々邪魔をしただろう!」
〔そりゃそうだよ。カズトを食べるのは、ボクの役なんだからぁ〕
「なんだと?」
川野が一つしかない目を丸くして驚く。
自分たちと同じ目的の存在が、狙っているエモノの味方にいるのだ。無理もない。
〔だから、感謝のシルシに『狛犬の目』のチカラから、解放してあげようかなーって思って!〕
「……そんなことが、出来るのか?」
〔そりゃあね。神様だからね、ボク〕
ハクがどこか誇らしげに鼻を鳴らす。
鬼や悪霊にとって、あの美しい『狛犬の目』に魅せられ、捉われることは、ひたすらに渇望し、己を削り続けるある種の呪いだ。
そこから解放される
「わかった。では『狛犬の目』は諦めよう、解放してくれ!」
川野が両手を広げ、喜んで叫ぶのを見下ろしながら、ハクは縦一本の瞳孔をたたえた金色の瞳を細めた。
〔……そう、思ってたんだけどねぇ。ボクのお気に入りのコサカを食べようとしてたみたいだから、やっぱりやーめた!〕
「な!」
白いオオカミは大きな口を大きく開き、人間の形をした鬼に食らいつく。短い叫びをあげて、くの字に曲がった男の身体は、あっという間に大きな牙と牙の隙間に吸い込まれ、バリ、ムシャ、ゴクン、と飲み込まれた。
しん、とした静寂。
ふいに風が吹き抜けて、ざわざわと空き地を囲む木々がざわめく。
暗くなった空き地の真ん中で、巨大なオオカミは白い毛をぼんやりと輝かせながら、長い舌でベロリベロリと口周りを舐めていた。
〔んー、やっぱり大人の鬼っていうのは、おいしくないなぁ〕
眉間に皺を寄せながら、ハクはそう呟く。
〔ドージマは憑いてる鬼だけ食べてってお願いされたけど、こっちの鬼は特に言われてないから、まぁいいよね!〕
ハクは百年以上ぶりに手に入れた四肢をうーんと伸ばし、空を見上げた。
凛子によって清められた、かつての居場所はやはり居心地がいい。
昔ここに建っていた神社も、元々は安曇家の人間が清めていた場所だ。きちんと受け継がれてきたチカラなのだろう、新しいのにどこか懐かしさを感じる波長で、安曇神社にいた時のように気持ちがいい。
〔カズト達、バクに頼まれた探し物、見つけられなかったみたいだし、そろそろいいかなぁ?〕
白いオオカミは昔より星の少なくなった空を見つめながら、長い舌でベロリと舌舐めずりをした。