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21-04



「え、それで川野先生、いなくなったの?」

 社会科準備室を出た後、小坂はそのまま部活に参加するため第二体育館へ向かい、春日は報告も兼ねて、アンケート集計のために和都が居残っている保健室に来ていた。

「ああ。顔の右半分がヤケドみたいになったまま出ていってな。その後すぐ西原先生がきたんだが、誰にも会っていないようなんだ」

 特別教科棟は、西棟も南棟も、外に出るには一箇所しかない階段を使う必要がある。川野がもし社会科準備室を出たあと階段を降りていったなら、西原と会っているはずだが、そんな様子はなかった。

「じゃあどうやって……」

「違う空間に逃げ込んだんじゃない?」

 和都と一緒に談話テーブルでアンケートの集計作業をしながら、春日の話を聞いていた仁科が言う。

「違う空間?」

「うん。堂島が俺んとこに来た時も、いなくなる時はスーッて空中に消えていったからさ」

「……こわぁ」

「なるほど、鬼はそういうことも出来るんですね」

 春日は川野がいなくなった時の様子を思い返すような顔で頷いた。

 鬼は空間を捻じ曲げたり、身体を変化させたりなど、人間では成し得ないことができてしまう、全く違う未知のものなどだと、改めて実感する。

「それにしても、凛子さんのくれたお守り、すごいんだね」

「ああ、確かに」

 春日は通学鞄に仕舞ったお守りを、再び取り出して眺めた。

 花の地紋が入った濃い紫色の生地で、表に『御守』、裏に『安曇神社』と金糸で刺繍された、どこにでもありそうなシンプルなお守り。

 先日、白狛神社跡地に祝詞をあげに来た際、凛子が「倒せるほどじゃないけど、怯ませるくらいならできるから」と和都と春日にくれたものである。

「安曇神社のお守りは、効果がすごいって評判いいんだよね」

「へー、そうなんだ」

「噂は聞いたことありますね」

 仁科の言葉に感心しながら、和都も自分の鞄からもらったお守りを取り出して見つめた。そこまで強力なチカラは感じないが、すごいものなのだろう。

 そんなことを考えながら、和都はハッと思い至って。

「あ、ねぇ。もしかしてだけど。ユースケ、このお守り試すために小坂についていったとか、ないよね?」

「……一応、確認はしといたほうがいいかと思ってな」

「危ないんだからやめろよ!」

 和都は驚愕と怒りの混じった顔で春日を睨んだ。

 春日は昔から、危ないことでも平然と突っ込んでいくタイプではある。しかしいくら喧嘩が強くて、強力な守護霊がついていると言っても、今回の相手は人ではなく『鬼』なのだ。

「──俺は『鬼』に関してはまだ、全然実感がなかったからな。対策を考えるためにも、実際にどんな感じなのか見ておきたかったんだ。……悪かったよ」

 和都が涙目になっているのに気付き、春日が視線を逸らして言う。しかし、ムッと口を結んだ和都の機嫌は直らない。

「まぁ、お守りの効力も分かったし、春日クンも無事だったんだから、よかったじゃん」

「……そう、だけど」

 隣で集計作業を続けていた仁科が、宥めるように和都の頭を撫でた。

 春日は今回、自分の代わりに社会科準備室に行ったので、その辺りもあるのだろう。

 自分ではなく、自分以外の誰かが傷つくことが、一番嫌なのだ。

「しかし、そんな強力な奴なら、俺も貰っとけばよかったなぁ」

 仁科は和都の握りしめていたお守りを、横からするりと取り上げてまじまじと眺める。

「……先生も、貰えてたらよかったのにね」

 先日、堂島が保健室にやってきた件を思い出し、和都がそう言った。

 もし仁科がこのお守りを持っていれば、ケガをせずに済んだかもしれない。

「おれのお守り、先生持っとく?」

「いやいいよ、お前が持ってなさい」

 仁科はそう言って和都にお守りを返すと、遠い目をして呟く。

「てか、なんで俺の分はなかったんだろ……」

「嫌われてるんじゃないですか?」

 春日が仁科にそう毒づいてすぐ、室内に声が響いた。

〔そのお守り、なんかすごいねぇ〕

 一番手前のベッドの上で、しゅるしゅると白い渦が巻き、大きな白い犬が姿を現す。首には赤白の捻り紐を首輪のように結び、尖った耳をピンと立て、金色の瞳がこちらを見ていた。

「ハク!」

 出会った頃は首までしかなかったが、今は前足から胴体、後ろ足まで綺麗な実体を現しており、残るはお尻の先の尻尾だけという状態。すっかりかつての狛犬だった頃のような姿になっている。

「ハクはすごいお守りって分かるの?」

〔もちろん! 普通のお守りとはちょーっと違う感じするね!〕

「へー、やっぱりそうなんだ」

 ハクの言葉に、和都は感心したようにお守りを見つめた。

 二人が笑い合って話すのを、仁科と春日は正直、内心穏やかに見ていられる気分ではないのだが、その理由を和都に知られるわけにはいかない。

〔でも、今度はコサカとユースケかぁ。なかなかカズトを食べられないから、焦ってるんだろうね〕

「……そうみたいだな。お前のチカラがだいぶ強くなったせいだ、というのを川野も言っていた」

「たしかに。あと、尻尾だけ?」

〔そうみたい!〕

 ハクがそう言ってお尻を振ってみせる。

 四肢も爪先まできっちり揃い、胴体の流れるような白い毛並みがキラキラしていた。

「まぁ先週末も、先生の家に泊まり込んでたみたいだしな?」

 そう言って春日は腕を組み、トゲを含んだ言葉で和都をジロリと睨む。

「……べつに、解読の手伝いしてただけだし」

 言われて和都は、視線をふいっと横に逸らす。

「泊まる必要はあったのか?」

「うっかり寝ちゃったの!」

「へー?」

 春日は視線を口を尖らせる和都から、今度は仁科に向けた。

「普通は、起こして家まで送るもんですけどね?」

「……いやー、全然起きなかったし、家に誰もいないって言うからさ」

「だからって生徒を自宅にほいほい泊めるのも、どうかと思いますけど」

「親戚のおじさんの家に泊めてあげただけだって」

 仁科が相変わらず飄々と答えるので、春日は深くため息をつく。

 親戚関係といえど、限度はあるだろう。ただでさえ、夏休みになにかしらあったらしい二人なのだ。

「──ちゃんと、節度は守ってくださいよ」

「分かってまーす」

 ジロリと睨む春日に、仁科はそう答えながら、談話テーブルの上に広げたアンケート用紙をまとめ始める。話ながらも進めていた集計作業が終わったようだ。

「……ユースケ、学校外のことは口出さないって言ったくせに」

「内容による」

「何だよそれぇ!」

 和都も仁科と同様にアンケート用紙をまとめながら、声を荒らげる。担当していた分が終わったらしい。

「それに、家に一人でいるより、誰かといたほうが安全だと思わない?」

「まぁ、一理あるがな」

「でしょ?!」

 怒ったように言う和都を置いておき、春日はハクのほうを真面目な顔で見つめる。

「……おい、ハク」

〔なぁに? ユースケ〕

「実体化したら、鬼じゃない人間でも食えるのか?」

「だれ食べさせるつもり?!」

 春日のハクへの問いかけに、さすがの和都も慌てて悲鳴のような声を上げた。

〔あはは、食えるよ! というか『鬼』も食べる時はまるごと食べちゃうつもりだしね〕

「え、まるごとって……」

〔うん! 身体ぜーんぶ丸ごと!〕

 今度はハクの回答に、和都の顔が青ざめる。

「え、待って、ハク。それじゃ困っちゃう……」

〔なんでー?〕

「堂島先生は、今はたしかに『鬼』だけど、鬼が憑いてるだけなんでしょ? 鬼だけ食べるって出来ないの? 堂島先生は、先生の友達なんだよ」

「できれば、俺からもお願いしたい。あぁなっても、友人は友人だからな」

 黙って聞いていた仁科も、これについては口を開いた。確かに被害には遭ったが、悪いのは彼ではなく、彼に憑いた『鬼』である。

〔うーん、出来るとは思うけどぉ〕

「本当?」

 ハクはピンと立てた耳を下げ、うーん、と困った顔をした。

〔でもね、ちょっと難しいんだぁ。鬼や悪霊がニンゲンに憑いてる状態ってね、ニンゲンの魂に掴まってる状態なの。それを手離してもらうには、一度ニンゲンの身体から魂だけを放り出す必要があるんだ〕

「魂だけを、放り出す?」

〔そう! 魂だけにされると、掴まってるだけの憑物は必ず手を離しちゃうんだ。そうやって離れたタイミングなら、鬼だけを食えると思うよ!〕

 ハクの説明で理屈については理解したが、実際にやるとなると、そう簡単な話ではない。

「魂だけにするって……どうやって?」

〔ほら、ニンゲンって事故とかに遭うと、リンシタイケンっていうのするでしょ? あんな感じのが出来ればいいんだよ〕

「でも、事故だとケガしちゃわない?」

「……下手したら、事故で死ぬ可能性もあるからな」

 仁科が腕を組んで息をついた。憑いている『鬼』を引き剥がすために事故を起こしたとしても、肉体が負ったケガが原因で死んでしまったら意味がない。

〔まぁ、ユータイリダツってのが出来れば、一番早いんだけどね〕

「幽体離脱……」

 言われて三人は揃って頭を捻る。

「先生、方法しらないの?」

「いやー、そっち系の勉強は途中で辞めちゃったから……」

 オカルト的な知識があまりないので、なんとなくのイメージでしか話せない。

「確か、気絶してるとなりやすいんじゃなかったかな。堂島アイツなら、殴って気絶させればなんとか……」

「先生、力では敵わなかったんじゃないの?」

「あー……うん」

 先日堂島に襲われた際は、全くもって腕力では歯が立たず、結局ケガをする羽目になった。

 どうしたらいいか、と悩んでいると、ハクが前足を上げて招き猫のように上下に振る。

〔まぁまぁ、カズトのお願いだからね! ドージマに憑いてる鬼を食べる時は、ちょっとだけ殴ったりしてなんとかしてみるよぉ〕

「うっかり殺しちゃったりとか、しないでね?」

〔大丈夫、大丈夫!〕

 ハクがケタケタと楽しそうに笑った。

 和都は若干の不安を感じつつも、これまでもちゃんと自分を守ってきてくれたのだから、大丈夫だろうと胸を撫で下ろす。

 孝四郎の件については、まだ納得の出来ない部分もあるけれど、とりあえずの脅威である『鬼』をなんとかすることは出来そうだ。

 もうすぐ今まで以上に平穏な日々がやってくるのかと思うと、つい顔が綻んでしまう。

 そんなことを考える和都の横で、仁科が学年別にまとめたアンケート用紙を整えていた。

「さ、任意のアンケート集計は、ひとまずコレで終わりだね」

「お疲れ様でしたぁ」

 疲れ切った和都は、談話テーブルに突っ伏する。

 一学期のものより項目も枚数も少ないとはいえ、集計作業はどうしたって疲弊するものだ。

「今日の作業はそれで終わりか?」

「うん、明日グラフとか作るつもり」

「さぁさ、暗くなる前に帰りなさい」

 言われて和都が窓の外を見ると、空はすっかりオレンジ色に染まり、紺色の気配が近付いている。

「うわ、もう夕焼けしてる」

「日が短くなってきたな」

 和都が帰り支度を始めたので、それを待つ間、春日は窓に近づいて空を見上げた。深い青と橙のグラデーションの間に、キラリと一番星が輝いている。

「春日」

 空を眺める春日に、仁科が近づいてきて声を掛けた。

「なんですか?」

「お前も帰り道、気をつけなさいよ。居なくなった川野が、どこに潜んでるか分からんし」

「はい、大丈夫です。襲われたら、またコレ投げるんで」

 そう言って春日は仁科に紫色のお守りを見せる。

「……凛子に、お礼言っとかないとだねぇ」

「そうですね。俺からの分も、伝えといてもらえますか」

「分かったよ」

 そんな話をしている間に、和都の支度が終わったようで。

「よし、帰ろ!」

「じゃあ気をつけてな」

「うん、先生もね!」

 そう言って手を振って保健室を出ていく和都と春日を、仁科は目を細めて見送った。

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