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11-01

 朝、いつものように観察簿を持って保健室へ行くと、入り口ドアに『ベッド使用中』の札が下がっていた。

 こんなに早い時間から具合の悪い生徒がいるらしい。鍵は掛かっていなかった。

「失礼しまーす。二年三組、観察簿持ってきましたー」

 小さな声でそう言いながら、和都はドアを静かに開けて入る。

 普段自分がよく使っている、一番端のベッドカーテンが閉まっていて、カーテンの裾から仁科の白いスニーカーを履いた足が見えた。

 カーテンの内側では、横になっている生徒がぐずぐずと、何かうわ言を繰り返している。

「心配するな。大丈夫、大丈夫だから」

 仁科が静かな声で優しく宥めているのが聞こえた。

 談話テーブルを見ると、別クラスの観察簿がいくつか積まれてあり、どうやらここに置いていけばよいらしい。

 和都もそれに倣い、同じように観察簿を置いて出ていこうとしたのだが、閉じていたカーテンの間から仁科がひょいと顔を出して、声を掛けてきた。

「あ、相模。氷枕取ってくれない?」

「うえっ。……あ、はい」

 呼ばれると思っていなかったので、声が上擦る。

 言われた通りに和都は冷凍庫から氷枕を取り出すと、綺麗なタオルに包んで仁科に手渡した。

「はい」

「さんきゅ」

 仁科は受け取ると、ベッドに横たわる生徒の頭を持ち上げる。

「ほら、頭あげて。こうしたらもっと冷たくなるから、もうちょい楽になるよ」

 そう言って氷枕を頭の下に敷いてやった。どうやら額に貼り付けた冷却シートだけでは間に合わないくらいの高熱らしい。

 和都はカーテンの隙間からチラリと見えた、シャツのネームプレートを確認する。色は赤紫、一年生だ。

「お迎え来たら起こしてやるから、それまでちゃんと寝てなさいね」

 仁科は小さく頷いた生徒の頭を優しく撫でると、カーテンの内側から出て、隙間をきっちり閉じた。

「一年生ですか? どうしたの?」

 やれやれと談話テーブルのほうまでやってきた仁科に、和都が尋ねる。

「うーん、なんか熱あるのに無理して学校来ちゃったみたいでね」

「えぇ、何でまた」

「今日ある英語のテスト? 受けないと成績下げられるみたいなこと言っててさ。んなわけあるかって言ったんだけど、なんか知らない?」

 仁科が困ったように頭を掻くので、聞かれた和都は少し考えて。

「あー、丸山先生かなぁ。そういうこと言うんだよね。成績関係ないテストでも言われたことある」

「それはダメだなぁ。ちょっと注意しとこうかな」

「一年生じゃそういうの、知らないしね」

「脅しめいた言い方は、子どもには毒だからね」

 あー面倒だなぁ、と仁科がため息をついた。

 この先生は、いつでも生徒側の味方であろうとしてくれる。

 ──なんだかんだ、いい先生なんだよね。

 自分が今まで出会ってきた中で、やはり一番まともな先生かもしれない。

 和都がそんなことを考えていると、ああそうだ、と仁科がこちらを向いた。

「悪いね、手伝わせて」

「いーえ。保健委員なんで」

 仁科は小さく笑いながら和都の頭を撫でると、いつものように少しだけ屈んで、その額に唇で触れる。

 普段通りの流れではあるのだが、和都はムッと口をヘの字に結んだ。

「……人がいるでしょーが」

「見えてないって」

 小声で言ったが、彼はいつものように眼鏡の向こうの目を細めて笑うだけである。

 ──やっぱ、前言撤回。

「……ったく」

 この人しか頼れない状況を呪いたい。

「さ、一限始まるよ」

「はぁい」

 仁科に促され、和都は計らずも小さくなった声で返すと、静かに保健室を後にした。





 放課後は、委員活動もなく春日と一緒に帰って。

 冷蔵庫の中に食べたいと思えるものがなかったから、財布とスマホと鍵だけを持って、いつものスーパーに向かう途中の、いつもの公園に入った、はずだった。

「……え?」

 誰もいない。

 家を出る時、日はまだ随分と高かったはずなのに、気付けば空は紺と朱の混じった不気味な夕焼けになっている。

 辺りは薄墨を流したように見えづらく、街灯もぼんやりとしていて心許ない。

 まるで、ダレカレドキ

「……ハク、いる?」

 いつもは姿を隠しているハクに呼びかけてみたが、応答はなかった。

 立ったまま寝ていたわけでもないのに、いつもは小学生でいっぱいの、放課後の公園に人がいないのはおかしい。

 和都は見えづらい周りの様子を、目を凝らしながらよくよく見てみる。

 まず、遊具がおかしい。

 ブランコの鎖が異様に長く、座面が地面にくっついていた。ジャングルジムも人が通れないくらい棒の間隔が狭くなっていて、バスケットのゴールもゴールリングが板の部分よりも大きく、柱も小学生の背丈くらいに短い。

 見慣れたはずの遊具が全部、なんだかどこかがチグハグだ。

 ──ここ、やっぱり。

 いつだったか、終わらない階段をずっと降りていた時のような、嫌な感覚。

「こんにちは」

 不意に遠くから声が聞こえてそちらを見ると、公園の奥の、随分と離れたところから、見たことのある人影がこちらに向かって歩いてくるところだった。

 ワイシャツに青いネクタイを締めた、身体の線のやや細い、生真面目な印象のある、男。

「川野、先生……」

 週に数回ある日本史の授業で見る顔だ。しかし、額の右端からはすらりと牛のような角が伸びている。

「良い子は、お家に帰る時間ですよ?」

 穏やかな声が、小さい子どもに諭すようにそう言った。

 徐々に距離が近くなっている。和都は少しずつ後退りながら答えた。

「……そうですね。じゃあおれ、帰るんで」

「君は悪い子だから、鬼に食べられるんですよね?」

 ハッと気付いた時には、縦に細長い瞳孔を持つ、真っ赤な瞳が目の前で。

「うわっ!」

 驚いて後方へジャンプして、川野との距離をとる。

 十数メートルはあったはずなのに、一瞬で詰め寄られてしまった。

「そうだ、この間のお話の、続きをしましょう」

 声は穏やかなまま、顔も笑顔のまま、川野はこちらの様子など一切構わずに言う。

「……しない!」

 和都は短く叫ぶように答えると、川野に背を向けて走り出した。

 いつもの公園の、入ってすぐの場所だったはず。ならば公園を出ればなんとかなる、と思った。

 ──えっ?!

 しかし、見慣れた出入り口を出たらすぐ道路になっているはずが、いつの間にか見たことのない遊具の並ぶ公園になっている。

「どこだよ、ここ!」

 後ろを振り返ると、川野がゆっくりとこちらに近付いてきていた。

 仕方なく、和都は知らない遊具の続く広い場所に向かって駆け出す。そして走りながら、脱出方法について考えを巡らせた。

 以前、いつまでも続く階段から出られた時は、仁科と遭遇したタイミングで抜け出せていた。その時は思い至らなかったが、あれは多分、仁科が強いチカラを持っていることと、何か関係があるに違いない。

 走りながらダメ元で仁科に電話を掛けてみたが、なぜか通話中になってしまう。

「……くっそ!」

 和都はとにかく走って走って、目に入った大きい遊具の影に身を潜めた。



──//──



 放課後の保健室。

 仁科がいつものように残業していると、スマホにメッセージが届いた。

「……あ? なんだこれ」

《蜈育函縺ゥ縺?@繧医≧》

 確認すると和都からだったのだが、そのメッセージは何故か文字化けしている。

 眉をひそめながら、暇人による遊びだろうか、と一応返信することにした。

《なにこれ。暗号?》

《證怜捷縺倥c縺ェ縺?シ√??隱ュ繧√↑縺?シ》

《ごめん、読めないんだけど》

《縺薙%縺ゥ縺難シ》

 奇妙なメッセージの次に届いたのは、一枚の写真。

 赤と紺の不気味な色をした空と、だだっ広い公園のような場所なのは分かった。ただ、よくよく見るとそこに並んでいる遊具は、よくあるもののようでどこか違う。まるで現実感がない、不可思議な物体ばかりが映り込んでいた。

「なんだこれ……」

 今日は菅原と小坂が部活、春日は塾の日なので、和都は春日と一緒に帰ったはずだ。とっくに自宅に着いて、いつものように本でも読んでいると思っていたのだが。

 写真を見ながら考え込んでいると、頭の中で聴き慣れた声が響いた。

〔ニシナ! ニシナー!〕

 振り返ると、半透明の犬の生首がそこにいる。いつも和都と一緒にいるはずの、元狛犬のお化け・ハクだ。

「え、ハク。アイツと一緒じゃないのか?」

〔カズトが、いなくなっちゃったよぉ!〕

 いつもならピンと立てている犬耳をへにゃりと下げ、ハクが泣きながら叫ぶ。

「はぁ?」

〔ボクの入れないとこに行っちゃったのぉ!〕

「え、じゃあその変なとこがココ?」

 ハクに和都から届いた写真を見せてみる。しかし、ハクはピンとこないようで。

〔あー、うん。た、たぶん……?〕

「アイツを最後に見たのは?」

〔カズトのお家の近くにある公園。公園入ったらいなくなっちゃって……〕

「うーむ……」

 グズグズと泣きべそをかくハクの頭を撫でてやりながら、仁科は考える。

 以前、川野に追いかけられていた時、ずっと階段をくだっていたのだ、というのは聞いていた。あの時は、それなりにチカラを持った自分と和都の物理的距離が近くなったことで、異空間から出られたのだろうと推測している。

 それなら今回も、自分が彼の近くまで行けばいいのかもしれない。しかし、写真に写っている公園の遊具は、和都の家の近くで見たものとは違う感じがする。

 仁科はとりあえず、和都のスマホに電話を掛けてみた。だが数コールほど普段の呼び出し音声がした後、ザザッ、キィーン、ガチャッと、通常ならありえない変な雑音がして、切られてしまう。

「……マジか」

 困惑した顔で仁科はスマホを見つめた。

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