〈これにて、狛杜高等学校の体育祭を、終了いたします〉
無事に体育祭も終了し、殆どの生徒がいなくなった昇降口で、春日と菅原と小坂の三人が、保健委員の仕事がまだ残っているという和都を待っていた。
空は綺麗な水色とピンクのグラデーションを描いていて、オレンジ色の夕焼けが迫っている。
「なぁ、春日」
ジャージ姿のまま、昇降口の数段しかない階段に腰掛けた菅原が、空を見上げたまま春日に声を掛けた。
「なんだ?」
「今日、相模を呼びに行った時のアレってさ、実は何気に危なかったんじゃねぇの?」
「……あぁ、そうだな」
小坂は自転車置き場から移動させてきた自転車に跨ったまま、不思議な顔で二人を交互に見た。
「え、なんかあったの?」
「……堂島せんせーに、なんか、腕掴まれててさ」
「げ、マジで?」
「いやー、話には聞いてたけど、実際見ちゃうと、ちょっと衝撃的だなぁ」
菅原が大きく息をついてうなだれる。
これまで先輩や後輩といった生徒から想いを寄せられる様子は見てきたが、大人の先生から一方的に迫られているという状況を見るのは、初めてだった。
「そういや堂島先生に、相模のことなんか色々聞かれたっけな」
「川野からも、似たようなことがあったらしいぞ」
「マジか」
春日の言葉に、小坂も分かりやすく引いている。
「アイツはなに? 年上キラーとか、魔性の人とか、そんなんなの?」
「……まぁ、以前から年齢性別関係なくあることだ。危なかったことも何度かある」
「うへぇ……」
春日の普段通りの様子に、菅原は渋い顔で舌を出した。あの時、和都が困ったような青い顔で言葉を濁していたのも、よくあることだからなのかと思うとやるせない。
「仁科はどうなんだ? 最近、放課後もよく一緒にいるみたいだけど」
小坂に言われて、菅原は少し考える。
「んー。仁科は大丈夫だと思いたいなぁ。相模も嫌そうな顔してないし。保健委員だからってめっちゃこき使われてるみたいで、たまにキレてるけど」
最近ではアンケートの集計作業で居残っていた時、仁科や先輩が仕事をしないのだと一緒の帰り道で愚痴っていた。
その様子を見る限り、文句はあれど堂島相手のように怯えている感じはしない。
「……仁科、多分堂島と川野が和都に目をつけてること、知ってるみたいなんだよな」
春日は救護テントでの仁科の様子が、どうしても気になった。今日の件については何か思い当たる節がありそうな顔をしていたし、以前川野に追いかけられた時に和都の逃げ込んだ先が保健室であったなら、何か事情を聞いていてもおかしくはない。
それをこちらに伝えないということは、何か言えない理由があるのだろう、というのまでは分かるが。
「まぁ、相模としょっちゅう一緒にいるなら、相談くらいは受けてんじゃねーの? でも、いくらお前相手だからって、それを相模に無断で言えないっしょ」
「……まぁ、それもそうか」
菅原に言われて、春日も少し冷静になった。
仁科の立場を考えたら、生徒から受けた相談というプライバシーを、勝手に他人に話せるわけがない。
和都のことになると、時々、彼が他人だというのを忘れてしまう。
──よくないな。
春日が内心息をついていると、珍しく小坂が沈んだ声で言った。
「アイツ、なるべく一人にならないようにしてやろうよ。……おれもチビだから分かるけど、デカいヤツはやっぱこえーよ」
和都と同じくらいに背が低いからこそ、自分より三十センチ近く大きな人間から、他意を持って見下ろされた時の恐怖はなんとなく想像できてしまう。
「そうだよなー。春日だけじゃ大変だろ。オレらもできる範囲で手伝うぞ」
「……正直、助かる」
菅原と小坂の提案に、春日も少しだけホッとした。中学の時ほど頻繁にトラブルは起きていないが、自分の生活の変化もあり、どうしても一人では対応しきれていないのが現状である。
──……今度こそ、ちゃんと。
彼の『味方』は多ければ多いほうがいいのだ。
そんな話をしていると、ぞろぞろと保健委員の生徒達が昇降口にやってくる。どうやら保健委員の活動が終わったらしい。
しかし、その中に和都の姿が見当たらないので、下駄箱で靴に履き替えている中の見知った顔を見つけて、小坂が呼びかけた。
「岸田ー、相模は?」
「あー、なんか仁科先生に呼ばれて戻ってたぞ」
岸田はそう返すと、じゃーなーと校門の方へ向かってしまう。他の保健委員達もぞろぞろと帰路へつき始め、殆どの生徒がいなくなった。
「えー、何やってんだ、アイツ」
「……ちょっと、見てくる」
春日はそう言って外履きを脱いで校内に入ると、靴下のまま廊下を歩いていった。
◇
「はい、じゃー今日はこれで解散。飲み物、好きなの持ってっていいぞー」
体育祭を終えた保健室では、救護係を勤めた保健委員が集められ、簡単な反省会や連絡、確認事項について話をしていた。それが終わると、談話テーブルに並んだ飲み物を各々選んで、全員が帰宅の途につく。
和都も飲み物を一本貰って、みんなと同じように保健室の外へ出たのだが。
「あ、相模。ちょっと」
仁科に呼ばれ、あからさまに疲れ切った嫌な顔で、和都は保健室内へ戻った。
「もー、なんですかぁ?」
頭につけていた白組のハチマキを首から下げ、肩を落として普段より猫背になった和都は、誰が見ても分かりやすく疲弊している。
だが仁科には、確認しなければならないことがあった。
「お疲れさん。……手首、見せなさい」
障害物競争のあと、戻ってきた和都は明らかに右手首を庇っており、仁科はそれが気になっていたのだ。しかし、競技そのもので手首に何かケガをした様子はない。そうなるとその前の、保健室に一人で行った際に何かあったのだろうと予想がつく。
しかし、和都が何も言い出さないので、改めて聞くことにしたのだ。
「……や、たいしたことは」
視線を逸らし、グレーのジャージを着た和都が両手を後ろに回して言う。小さい子どもが分かりやすい嘘をつく時と同じような態度。
仁科は息をつくと、ジロリと
「見せろ」
「……はい」
和都が観念したように右手を差し出す。
ジャージの袖をめくると、手首と肘のちょうど真ん中あたりに、大きな痣。指の形がくっきりとついているので、大きな手でぎゅっと強く握り込まれたのだろう。
「まだ痛む?」
「少し……」
「ちゃんと言いなさい。湿布でいいか?」
「……うん」
和都がしゅんとした顔で返事をする。
腕自体は折れたり腫れたりしてはないが、少し内出血しているようだった。
「どっちにやられたの?」
「堂島先生」
仁科は大きめの湿布を用意して、痣を覆い隠すように貼ると、念のため固定用に包帯を巻いていく。
手当てを受けながら、和都は中央階段で起きたことを仁科に報告した。
「──なるほど。首吊り幽霊に、赤鬼かぁ」
「赤鬼って……」
仁科の言葉に、しょげていた和都がようやく小さく笑った。確かに、小豆色のジャージを普段から着ているから、赤鬼と言ってもいいのかもしれない。
「今のあいつは、俺の知ってる堂島
仁科は包帯を巻ききると、取れないように包帯止めをつけた。
「はい、終わり」
「……ごめんね、先生」
「ほら、すぐ謝る。こういう時は違うでしょ?」
そう言って、仁科が人差し指で和都の額を弾く。
「……あ。ありがとうございます」
「よろしい」
仁科は和都の頭を撫でると、そのまま少し屈んで、小さな額に軽く口付けた。
「……今日の分ね」
「はーい」
もう一度だけ頭を撫でて、仁科は手当てに使った道具を戻し、湿布の剥離フィルムをくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に捨てる。
「しかし、気を付けないとな。俺も今日は
「うん、おれもバタバタしてて忘れちゃってた。ユースケ達が来てくれなかったら、本当危なかった」
「そうだな……」
忙しさからつい隙を作ってしまった。今日のことはしっかり反省しておかなければならない。
和都は腕に巻かれた包帯をじっと見つめた。もしあの時、偶然とはいえ助けが来なければ、この程度のケガでは済んでいなかっただろう。
「あ、春日クンたちってまだ残ってるの?」
「うん。昇降口で待ってくれてる」
「じゃあ残ってるジュース、あいつらの分も持ってっていーよ」
「いいのー?」
「ああ。春日クンには冷却シート運ぶの、手伝ってもらったしね」
「わかった!」
和都は明るく答えると、談話テーブルに残された飲み物の中から三人が好きそうなものを選び、両腕で抱えた。
「じゃあね、先生!」
「おー、気をつけて帰れよー」
和都がパタパタと軽い足取りで保健室を出て行く。
その開けっ放しにされたドアの向こう、夕焼けの迫る薄暗い廊下の方から話し声が聞こえてきた。
「あれ、ユースケ。どうしたの?」
「遅かったから、何かあったのかと思って」
「あ、手首の手当、してもらっててさ……」
そんな会話がゆっくりと遠ざかっていく。
聞こえた感じからして、わりとすぐそこで話していたような気もするが。
「……んー、見られちゃった、かな?」
自分を一番警戒している彼に見られていたら、とてつもなく厄介なことになる。
しかし、頭がよくて勘のいい春日のことだ。すぐに